2016年7月23日土曜日

私にとっての「書く」ということ


ある人のブログを読む。彼女の人生に想いを馳せるだけじゃなく、自分の日々の生活についても考えさせられる。一日一日、追われるように過ごしているけれど、実はその一日は思っているよりももっと豊かで大切なものなのではないか。日々することや、考えること、起こること、そして人とする会話。そういうことを横目に早歩きしているけれど、そういうことに目を向けることが人生を豊かにするのではないか。書くことは、日々の小さな出来事に目を向けることを助けてくれる。私が写真が好きな理由と同じ。

書くことは、私にとって大きな意味をもつ行為である。書くということは、communication to the othersだけでなく、communication to myselfでもある。Communication to the others。メールを一通書くにしても、論文を書くにしても、「こう書いたら読む人もわかりやすいかな」「こう書いたらこういう風に解釈されてしまうかもしれないな」なんて、読む人のことに想いを巡らせながら書くプロセスも好き。Communication to myself。書くことで自分の考えや感情に気づかされることが多い。人間は自分のボキャブラリーにないコンセプトを思考化することはできない。だからジョージオーウェルの「1974」が描く国民がコントロールされた独裁国家では、政府に都合の悪い単語は使用を禁止され、だんだんと人の生活から、そして頭から消えていく。

せめてこうやって一人でフィールドワークをしている間だけでも、たわいもないことでもいいからブログをちょっとづつ書いていこう。ライデンに戻って娘との慌ただしい生活に戻ってからは、どれだけできるかわからないけれど。

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