2022年11月18日金曜日

苦しい気持ち

ここ数年、10代の若者のメンタルサポートケアをLINEで行う団体のボランティアとして活動している。毎日何十人もの若者が助けを求め、何百通ものメッセージが団体に送られてくる。私が担当した子の一人に、父親から性的虐待を受けていた女の子がいる。初めて彼女とLINEで話したのは数年前だったか、その時は毎日のように死にたいとメッセージが来て、その度に彼女の気分がなんとかおさまるまで何時間も話に付き合うこともあった。父親がいる家に帰りたくなくて、寒い中ずっと外にいるという彼女になんとか安全な場所に移動してもらおうとやきもきしたことも何度もあった。

様々な自傷行為をしていた彼女、何度目かの自殺未遂で彼女は病院に送られそこから緊急入院することになった。入院中は携帯を触れないとのことでメッセージも途絶えたのだけれど、退院した時にメッセージをくれた頃には彼女はだいぶ落ち着いたようだった。入院期間にあたたかいサポートを受けて心も体も休息できたとのことで安心した。まだまだ苦しみは絶えないようだったけれど、通院してサポートを受けながら少しずつ前に進んで落ち着いてきているようだった。と思ったら最近音沙汰がなくなり。音沙汰なしで数ヶ月が経った数日前、また彼女から丁寧なメッセージが届いた。内容は、連絡ができてなくて申し訳ない気持ちだったこと、両親が離婚して家に父親がいなくなったこと、学校にはいけてないけど幸せを感じられていること。環境の変化はプラスの変化でもマイナスの変化でも大変な労力を使うことだけれど、父親が家にいなくなったことで環境は良くなったのだと思う。

少し話していると、彼女は、幸せだけど、すごく辛いし苦しいという。弱音を吐きたくなくて、迷惑をかけたくなくて、だから辛くて苦しい気持ちを自分で抱えこんでしまう。どんな気持ちになるのかと心に手をあてて聞いてみるように彼女にいうと、とにかく「死にたい」「苦しい」気持ちに翻弄されてしまうという。「死にたい」「苦しい」気持ちの奥には何か他の気持ちがあることが多い。それは不安だったり、怒りだったり、悲しみだったり、いろんな気持ちが隠れているのだけれど、その子の傷が深ければ深いほど、深いところにある気持ちに気づいてあげることは難しくなる。

でも辛い時にその気持ちを掘り下げて(または、人に話を聞いてもらうことで気持ちを掘り下げるのを助けてもらって)、自分の気持ちに気づいてそれを認めてあげることは、大変な癒しになる。

それから・・・他の誰かに、その気持ちを受け止めてもらうこと。辛かったね、怖かったね、不安だったね、と、認めて受け入れてもらうこと。その過程を経て苦しみは和らいでいくのだと思う。

私が自分自身の子育てで意識していることも同じ。娘が苦しい時や辛い時、ネガティブな感情を感じて表現している時には、そうだね嫌だったね、といって抱きしめる。それだけで、彼女の苦しさが昇華されるのが伝わってくる。

2022年11月14日月曜日

「良い人生」とは?

十年来の友人が関西に一ヶ月滞在している。

彼と初めて出逢ったのも関西。その時私は名古屋で勉強しながら1歳の娘を育てていたのだけれど、大学での活動や勉強に少し物足りなさを感じ、もう少し自由な議論ができる場所を求めていた頃だった。そんな時彼が友人たちと企画運営していたディスカッショングループを見つけ参加したのがきっかけだった。

そのディカッショングループでは時には哲学的、また別の時には政治的なトピックについて話し合いそういう議論が好きな仲間とも出逢えた。その中でもオーガナイザーであった彼は一際哲学的探求に熱心で好奇心に溢れている印象だった。

それから約9年。彼はその後イギリスで修士課程を終え、アメリカに渡りPhDを終え、その間台湾に短期滞在したり、日本に遊びに来たり、ヨーロッパに帰省(彼はポーランド系フランス人)したり。私は日本、インドネシア、オランダとお互いいろんな場所を行ったり来たりの生活だったのだけれど、なにかと連絡をとっては葉書を送りあったり、会えるタイミングを見つけてばオランダ、フランス、日本でちょくちょく会ったりしていた。でも、今のように数週間同じ場所に滞在するのは九年ぶり。(九年前も私は名古屋で彼は大阪だったから、その距離を考えると同じ場所に滞在するのは初めてかも)。

共通の趣味である山登りに行ったり、美術館を訪れたりとこの貴重な数週間を楽しんでいるのだけれど、その中でも一番嬉しいのが、また9年前のようなディスカッションを二人で何回かホストしていること。特に彼はこの9年間もいろんな場所でディスカッションをホストしていたので、経験も豊富。先週京都で行ったセッションでは、私のアイデアで、「良い人生とは何か」について話し合った。少人数制なので定員は10名なのだが、キャンセル待ちが出るくらいの盛況ぶり。

私はソクラテスの "Unexamined life is not worth living."「吟味されざる人生では生きる価値がない」という言葉から。彼が思いついたのはカミュの「シーシュポスの神話」。神々の怒りを買ってしまったシーシュポスは、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受ける。彼は神々の言い付け通りに岩を運ぶのだが、山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならない。というなんともいえない話なのだが、カミュはここで人生の不条理について、そしてそれにも関わらず生き続ける人間の姿を描いている。

「良い人生」について考えると「意味のある人生」とは、そしてその意味とは何かという問いにもぶつかる。私はディスカッションの初めに皆で意見交換をした時には個人の見解として「成長すること、理解しようと努めること、繋がりをもって深めること」が良い人生、意味のある人生だとシェアした。それぞれの参加者が十人十色の「意味」をシェアして、議論はいろんなところに派生していったのだけれど、一番難しいなと思った問いは、「意味」は個人一人で決められるものなのかということだ。

自分の人生の意味や価値は自分で決める、というのは一見正義であり真理であるかのように聞こえる。でも、それが真ならば、どんなに他人や社会にとって悪であり、疎まれ蔑まれ馬鹿にされるような人生であっても、本人自身が満足していればそれで「良い人生」「意味のある人生」であるということになる。また、人生の意味は本人が決めるものでありだからそれはどんなに些細なことでも意味になりえるということになる(例えば毎日歯を磨くことを人生の意味とすることも可能になる)。その人自身の人生なのだからそれでいいのではと思う反面、それではあまりにも独りよがりにならないかという気持ちも湧いてくる。


今回のディスカッションは友人がリードして、とてもうまくいった。さすが経験豊富な彼はリードもうまく充実した2時間だったと思う。さすがだね、と彼の技量を褒めると、練習すれば誰でもできると謙遜し、過去の経験で彼が失敗した時のことなんかをシェアしてくれる。そのイベントの翌日である今日、毎日のように他愛のないやりとりをしているメッセージの中で、彼が「一時的な思考だから無視してくれていいんだけど、僕は自分の苦しみに意味がないことに憤りを感じる。僕の苦しみに意味や理由があれば、それは耐えられるものになるのに。」という。

たぶん頭が良過ぎて、優し過ぎて繊細で、傷つきやすい彼は10代の頃からずっと精神的に苦しんできた(一般的に鬱と呼ばれるようなもの)。私自身も数年前に彼を傷つけてしまいそれから2年ほど連絡をとってなかった時期もあった(もう彼は絶交するつもりだったのかもしれないけれど、私から謝罪のメッセージを彼に送ってから、また友人関係が復活して今に至る)。自分自身の苦しみの意味のなさが憎い。意味があれば少しは耐えられるものになるのに。そういう彼の真意を慎重に汲み取ろうとしながら、理解しようとしてみる。

人生は不条理だ。苦しみも同じように不条理だ。その無意味(meaninglessness)の箱の中に生きる私たちは、それでも生き続ける。何度も同じように岩を転がしては元の場所に戻ってしまうことを繰り返すシーシュポスにとって、人生の意味はその岩を転がし続けることだった。意味は行為によって作られるものなのではないか。私たちは私たちなりに意味を「つくる」ことでこの「無意味」な人生を生きているのではないか。

彼は今週末まで関西にいて、毎日何かしら会ってご飯を食べたりまたディスカッションイベントをしたりする予定になっている。どんな他愛のない日常でも、少しでも意味を見出せたら、または意味を「つくる」ことの手助けができたなら、少しは彼のような優しい人の救いになるのだろうか。