2014年7月19日土曜日

私がブログをかく理由




最近、執筆が不調である。

書きたいことはあって、書き始めるのだが、いつも言いたい事の3分の2くらいを言った段階で筆が止まってしまう。

そうやって執筆が完成していない記事が2−3個ある。



先日、初めて会った人に目の前でブログを見つけられてしまうということがあった。

とっさに「今読まないで!読むなら私がどこかに言ってから読んでください。」と言ったのだが、すると

「インターネットという公の場で、不特定多数の人に公開しているブログなのに、(今知り合ったといっても)知り合いである僕には見せられないの?strange.」と言われてしまった。

たしかに。と思ってまず自分がなぜブログを書いているのか考えてみた。

ブログを書くという行為は、私は二つの意味で有益なことだと思っている。

1)後から振り返った時に、その時々の自分の考え、そしてその移り変わりがわかる。自分の思考の変化の証とでもいうか。

2)書く事で、自分の思考の整理、明確化に繋がる。

この2つの中でも、2)は特に私にとって大事で。

というのも、私は自分の感情に気づくのがあまり得意な方ではなく、大抵の場合、自分の行動から思考回路を分析して、その行動や思考から自分の感情をまず推測しなければ自分の感情に気づけないのだ。

例えば、「疲れたなあ」という感情に直接気づけることはあまりなく、「最近ちょっとしたことでイライラするなあ」という「行動」を分析した結果「疲れているのかもしれない」と仮定し、自分の身体を労ってあげると、結果その「ちょっとしたことでイライラ」が解消され、「ああ、やっぱり疲れていたんだなあ」となる。

これはシンプルな例だが、他のもっと複雑な感情でもこういう分析が効果的なことがよくある。

さて、話を戻すと、だから自分の思考を文章にして、整理をして、公開するということは私にとっては結構大事な行為で、だからこそ忙しい時でも時間をとるようにしている。

みなさんも、他の人に話を聞いてもらっている過程で、初めて自分の感情や思考に気づいたという経験があると思う。

それは他人に話すというある程度強制される形で、自分の感情や思考を引っ張りだしてくる必要があるからだと思っている。

私がブログを書くのは、そういう「思考の引っ張りだし」をブログという形でやっているからだと言えるかもしれない。


私の好きなフレーズの1つに、ガンジーのものがある。

"Happiness is when what you think, what you say, and what you do are in harmony." - Gandhi」(幸せとは、考えていること、言っていること、そしてしていることが調和している状態である。)

だから、どんな形であれ、「思考の引っ張りだし」をして、自分の人生を自分で決めて自分の足で歩んでいくためには大切なことだと思う。そしてそれが人間の幸せに深く関るものなんだと思う。

それを他人に話すという行為でできる人もいるだろうし、一人で散歩に出るという行為でできる人も、日記をつけるという行為でする人もいるだろう。



さて、では何で今執筆が不調なのか?

もちろん時間がないとか、そういった物理的要因もなきにしもあらずだと思うが、それを別にして、私が「迷っている」からであり、その迷っていることを認められるようになったからかもしれない。

一応、ブログの記事にはひとつひとつメッセージを持たせているつもりで、執筆する時、特に執筆後半になるとそのメッセージをある程度「決める」必要がある。

最近はいつもそこで筆をおいてしまうのだ。

以前までは、強烈にどうしても伝えたいことがある場合以外は、迷っていてもメッセージを「えいっ」と決めて書いていた気がする。

それが私の考えであって、私の考えというのは1つ持っておく必要があると思っていたから。

でも、今はその決断を焦るよりも、一度距離をおいて時間をかけて決めてみようという姿勢に変わった気がするのだ。

迷っていてもいいじゃないか、焦らなくても、時がくれば決められる時がくる。そんな気持ちになれている。


子曰、吾十有五而志乎(干)学、
三十而立、四十而不惑、
五十而知天命、六十而耳順、
七十而従心所欲、不踰矩。


(読み)子曰わく、吾十有五にして学に志す、
三十にして立つ、四十にして惑わず、
五十にして天命を知る、六十にして耳順がう、
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。


(訳)先生が言われた。「私は十五歳で学問に志し、
三十になって独立した立場を持って、四十になってあれこれ迷わず、
五十になって天命をわきまえ、六十になって人のことばが素直に聞かれ、
七十になると思うままに振舞ってそれでも道を外れないようになった。」
 


言わずと知れた論語の一部分である。

「四十になってあれこれ迷わず」という部分が、私は好きだ。

孔子でも、40歳になって初めて「迷わない」という段階に達したのだ。

今の私は迷うことだらけだが、ああ、それであたりまえなんだ。と思えた。

むしろ今迷うべきなのかもしれない。



と、こんなメッセージで、やっと1つ記事を完成させられた気がする。

あとの未完成のものも、完成して公開するかもしれないし、しないかもしれない。

でもそれは、Que sera seraケセラセラ)。