2018年4月25日水曜日

節目


娘が5歳になった。

5歳になったからといって何かが劇的に変わるわけではないのだけれど、母親としてはやはり感慨深く、節目を迎えたような気持ちだった。

同時に、私も母親として5歳になった。

今まで女性として、自分という人間として27年間生きてきたけれど、母親としての私はその体に生命が宿ると同時に産まれる。


私は一人でこの子を育てていくと決めてから、ずっと一人で責任を負って育ててきたような気分だったけれど、そう、孤独を感じた時もあったし一人で担う責任の重さに怖くなったりでも一人の分楽なこともあったり誇りに思ったり。

でも、最近それは違ったんだなあと気づいた。娘は私以外のいろんな人いろんなものいろんな環境に育てられてきたんだな、と。

それに気づくのは大きな出来事があってとかではなく、ほんとうに何気ない日常のワンシーンだったりする。例えば、仕事が終わって保育園に迎えにいくと扉から見えた、娘が先生と横に並んで座って文字を書いているシーンだったり。娘の誕生日会で友達と諍いがあって泣く彼女を「ここは私に任せて」といって友人がなだめ役をかってくれたシーンだったり。

今日は、娘のことを普段からよくみてくれている先生が、「今日はね彼女が男の子の人形と女の子の人形で遊んでいて、他の子が、『はパパが2人いるんでしょ』と言ったのに対して、彼女は『私のパパは1人だけ。他の人はパパじゃなくて、ママの友達だよ』と答えていてなんだか感心したんです。ちゃんとよくわかっているし、そのことがもうストンと腑におちて納得しているというか。ネガティブな感情とかもなしに。」そうなんですよね、子供はそういう点で柔軟ですよね、私の方がまだ、彼とお別れすることになったことについて彼女に対して罪悪感を感じていたり、周りのジャッジメントが怖かったりするんですよね。なんて少し弱音を吐いていると、先生は「でも彼女は守られて安心して成長しているのがわかる子ですよ。周りの意見なんて気にしなくていい、あなたと彼女の人生なんだから。」と。ああ、一生懸命生きていれば、何も言わなくても、無理にわかってもらおうとしなくても、こうやって見ていてくれる人がいるのだと、こうやって、私の知らない間に娘はいろんな人に育てられてきてこれからも私の知らないところでいろんなことを学び育っていくんだな、と。


5歳になった母親の私も、ひとつの節目。

何が何でも私が守らなければ、と常にガチガチに防御を固めて守ってきた私と娘の安全地帯。絶対に私が彼女を幸せにしなければ、と責任を全部背負って肩肘はって進んできた道のり。

その守りを少し緩めるのは、全て私が背負わなくても、常に守りの状態にいなくても、なんとかなる、と、 周りの人や人生に対する信頼をするということ。



家の庭にあった鉢植え。冬の間は生命の気配なんてこれっぽちもなかったのだけれど、急に暖かくなった先週にひょこっと新しい芽が生えてきていた。娘と一緒に喜んだ。美しくて、強くて、この先が楽しみだ。
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2018年3月25日日曜日

信念

人間って複合的に物事を見ることはできないので、日常的に何かを経験したり解釈したり感じたり判断したりするということは、常に虫眼鏡を通して世界を見ているようなものなの。そして私の頭の中には2つの虫眼鏡がある。

1)ひとつは自分の内側をみる虫眼鏡。

2)もうひとつは外側から自分をみる虫眼鏡。

1)の自分は今の生活を結構気に入っている。素晴らしい娘を授かり彼女の母親であることがこの上なく幸せで、満たされている。おしゃれしたり贅沢したりすることはないけれど、全ては事足りていて服装も生活スタイルもシンプルなもの。このシンプルさがなんだか自分たちにフィットするような感覚で心地がいい。

でも、2)の自分はスティグマとか世間体とかに悩まされている。周りに認められたい、どこかに属したい、馴染みたいと思っている。一人で、若くして母親になり、アジア人で、女性。民族的にも、性別も、今住んでいるヨーロッパの国ではいわゆる被差別分類に属する。それに加えて若くしてシングルマザーでPhDやってます、なんていう私は、この男性社会、白人社会のアカデミアではパワーレスな存在。スティグマ、といってしまうと大げさに聞こえるかもしれないけれど、結局は同じこと。女だから、アジア人だから、とかいう括りでラベルを貼られ相対的に下の方に置かれ軽んじられてしまうことは、残念ながらあると思う。

人間は、他人との関係性の中に生きることを避けては通れないので、2)の視点やその視点から生み出される苦しみや悩みなんていうのは、かなり切実なもの。だから多くの人は世間体を整えようと必死になったり、周りの人に認められるような仕事についたり、「きちんとした」服装をしたり、ある程度の年齢になったら結婚したり出産したりすることに精を出す。

でも、これには3つ問題点がある。

1つめは、2)の視点は自分自身が創り出した幻想でしかないということ。私はいろいろなラベルを貼られて下の方に置かれてしまう、なんて書いたけれど、それは現実ではない。正確にいうと、それが現実であるという保証はない。2)はあくまでも自分が外側から自分を見ている視点であり、それが周りの視点と一致しているとは限らないーむしろ、一致していない可能性の方が圧倒的に大きいのだ。

2つめの問題点は、2)で見る「外側からの視点」は無限に多様であること。100コミュニティーがあれば100の違った見方感じ方があるし、その中の1つのコミュニティの中に100人いればまた100の違った見方がある。つまりあなたが同じことをしていても、良いように見て賞賛する人(やコミュニティ)もいれば悪いように見て批判中傷する人もいるのだ。上記の、他人との関係性という意味でいうと自分と他人との関係性は無数にあり、その関係性次第であなたの行動や人となりの見え方も無数に多様であるということ。

最後に3つめは、その無数にある関係性の中で、一番大事なのは自分自身との関係性であるということ。考えてみると、2)で外側から見ている自分も、結局自分の視点なのだ。

周りにいる同僚や上司、友人や知り合いでも、1)の自分の内側を見る視点を軸にして生きている人は(本当にごくごく少数しかいないのだけれど)素敵だな、と思う。

私にとって1)を軸に生きるとはどういうことかと考えると、結局は信念ということろに行き着く。信念とは、私はこうやって生きる、という決断と覚悟のこと。失敗しながらでも、転びながらでも立ち上がって這いずりながらでもカッコ悪くても前に進むこと。誰が何を言おうと批判されようと私が正しいと思う道をまっすぐに進むこと。それが私にとっての強さである、と信じること。そして2)に揺らがされることのないくらい確固たる1)をもつー自分の内側にある幸せと充実感を思う存分に楽しみ味わう。私にとって本質的に生きるとはこういうこと。

2018年3月11日日曜日

中盤地点

こちらでの4年契約のPhDも2年間が過ぎ、ちょうど中盤地点。
この2年間、いろんな困難やチャンスが次々と舞い降りてきて(ふりかかってきて?)、めまぐるしく、エッまだこれで半分なのか、と意外な感覚だ。
きっと、仕事や研究の面だけでなく、人との関係や自分自身についてもそれだけたくさんのことを学んできたということなのだろう。

最近感じていたのは、自分自身が思っていた以上にambitious、上昇志向だったということ。
成長欲や学習欲が人一倍高い。
もちろんこれは強みであり、だからこそこうやって異国の地で子連れでPhDという仕事を始め続けていられるのだけれど、最近この自分の「癖」を少し見直したいなと思っている。
というのも、盲信的に上を上をと目指しているのでは、せっかく今見られる景色を急ぎ足で通り過ぎているようなものだと気付いたからだ。
目標点を基準にそこへ行くまでの道程ばかりに気をとられていては、「今の等身大の自分」に満足することができなくなってしまう。
それに、進んでいく過程で目標点自体が更に上へ、更に先へと動いてくので、そこへ向かって歩く道程もきりがなくなってしまう。
マラソンをしていた時もそうだったけれど、あと何キロ、今で何分の1、とか考えていると、気が遠くなることがある。
そういう時は、前や周りのランナーをみるのをやめ、自分の足元を見て、一歩一歩左右交互に出ている足を見つめて走った。
それと同じように、PhDも、こちらでの生活も、目標を見据えながらも今を大切に、足元をみて一歩一歩を踏みしめていく、ということを意識している。
PhD1年目に書いた、「この4年間で達成したい目標」とやらを引っ張りだしてきた。1つづつ検討して更新していく。

1)教えられるようになる。(オランダ語で・・・はちょっとambitious過ぎる気がするので、とりあえず英語で・・・)
→一応、もう教えられるようになっている。来月もまた講義の機会があるし、今年もできるだけ講義は積極的にしていこうと思っているので、目標は、「質の高い講義ができるようになる」に更新。

2)今同僚と進めているプロジェクトで期待以上の成果をだす。
→論文は一本仕上がったので、これは1つの成果。なかなか満足のいく質の論文が出せたと思う。プロジェクト自体は、ワークショップも2つ企画実施してこれもまた成果。・・・なのだけれど、その成果を本にして出版するという計画が、せっかく資金調達も成功して準備は整っているのに、インドネシアのカウンターパートと共同で進めているため進行速度が亀のように遅い・・・。でもこれはインドネシアのカウンターパートを含めたプロジェクトには避けて通れない道だそうなので、これも経験と思って辛抱強くあまり焦らずできることをしていこうと思う。遅れに遅れている本出版の計画、今年中にはなんとかまとまるといいな・・・。

3)インドネシア語で”operate”できるようになる。(インタビューを含めて、プロジェクト運営とかもインドネシア語でできるように)
→これが5つの目標の中で一番できていない。予想外だったのが、英語(academic writing)もオランダ語もフランス語もやっぱりやらないといけないんじゃないかと思ってレッスンをとったり練習したりして時間と労力を割いてきたこと。インドネシア語はもちろんフィールドワークの半年間でかなり上達したけれど、まだ怪しいので、自信を持ってオペレートできるようになるまでコツコツ練習しよう・・・。

4)Academic Englishは、他の人の書いたものを読んでフィードバックできるまでになる。
→これももうある程度できるようになった。書くことは好きだし、これからも活かしていきたいのでacademic writingとかcreative writingのスキルは磨いていきたい。これも、質のいい文章を書けるようになるように。

5)もちろん、論文を期限通りに仕上げる。(4年間で仕上げた人は、ほぼいないそうだけれど・・・)
→これも今のところは良いペースできている・・・はず。
 
あと1つ追加したいのが、オランダ語とフランス語・・・。オランダ語は直近のニーズ(娘のオランダ語についていく・・・とまではいかなくても理解してあげられるようになりたい)があるし、オランダ語もフランス語もPhDが終わってからヨーロッパで仕事を探すならある程度の基準にまでもっていっておいた方がオプションが広がる。といってもむこう2年間の優先事項にはできないし隙間時間でできることにも限りがあるので、日々の生活の中でチャンスを最大限に活かして(フランスに行く時とか、オランダ語については娘の本や街中の看板などから単語を拾ったり)、いざチャンスがあったときに短期間(半年以下)で集中的に学んでワーキングレベルまでもっていけるようにしておきたい。
 
 

2018年1月3日水曜日

ゆくとしと来る年

2017年はかなり慌ただしく、混沌とした1年だった。

バリに出発する2週間前に娘の病気のことがわかり、ヨーロッパから持って行く薬の確保や税関対策、現地での病院の確保などなど家族や同僚と連携プレーでなんとか出発した。

フィールドワークは結果的にうまくいったのだけれど、根を詰めすぎたせいか途中であやうくバーンアウトになる直前までいった。おそらく疲労で1週間話せない・食べられなくなるくらいの人生最悪の口内炎ができたり・・・。結果は出たけれどかなりインテンスでストレスフルなフィールドワークだった。

オランダに帰ってきてからも、学会にでたり論文を仕上げたり教えたり・・・と仕事が休まることのない中、新しく借りた家にうつり、娘はオランダの現地校に通い始め、それをできるだけサポートしようと私もオランダ語を(数年のオランダ生活を経てついに)習い始め・・・。

そしてこんなところで書くのはかっこ悪いかもしれないけれど、年の始めから1年くらいお付き合いしていた彼とも年末にお別れすることになってしまった。混沌とした1年間、娘を含めて私たちを受け入れてくれ、サポートしてくれた彼だったのだけれど、オランダに帰ってきてから私が借りた小さな家に実質的に3人で住むことになったのが急すぎたのだと思う。娘もかなり懐いていたので、私たちが別れることで必然的に彼女にも影響が出ることがとても辛かった。「普通」の生活、家庭を彼女に与えてあげられないことが、すごく情けなく、悔しかった。

占いなんて普段は気にしないのだけれど、毎年元旦にお参りにいく神社ではおみくじをひく。今年のおみくじには「辛いことや苦しいこと時期があっても、それは神が与えた試練であり、自己の行為を反省し、心をみがき、誠心をつくして、家庭を守り仕事を大切にすれば、新しい道が開ける」というようなことが書いてあり、なんだか見透かされたような気分になった。

私も一人の人間。常にいっぱいいっぱいで頑張り続けることはできない。子育てをしていても、人間関係でも、仕事でも間違いはするしまだ未熟なところも多いけれどそれでもいい。そして、2018年はもう少し穏やかな年にしたい・・・。

今年の目標は、
1)自分の内面に目を向けること。
自分の限界を知ること。責任感や義務感にとらわれて忘れてしまいがちな、自分の感情や体調に耳を傾けてやること。日常生活の小さいことから大きなゴールのレベルまで、「自分がやりたいこと」を意識すること。

2)感謝をすること。
「ないもの」や「失ったもの」ではなく、「今あるもの」「今もっているもの」に目を向けて精一杯尽くし感謝する。それは過去を振り返ったり、後悔の念にとらわれたりしてしまいがちな時に、「今」に集中し「今」を精一杯生きることでもある。例えば、今の私にはいわゆる「普通」の生活や日本でのぬくぬくとした家族との生活はないけれど、自分で選びとった道を行っているし、オランダで不自由ながらも精一杯やりたいことをやっている。周りの人たちも、足らないところや不満があるところにはある程度目をつぶり、良いところ尊敬できるところにフォーカスして感謝をしたい。

3)自然体でいること。
強がったり、大丈夫できてますというふりをするのではなく、弱い自分も、できないかっこわるい自分も、人に見せるのを恐れない。弱っている時は弱くてもいいし、できないことがあってもそれでいい。背伸びしたような感じで始めたPhDももうすぐ2年(半分)が過ぎるので、そろそろ背伸びはやめ。自分の実力をつける努力は怠らず、でも自分の力が足りない部分はそのまま見せていい。それができるのはこの2年で同僚や友達とのある程度の信頼関係(自然体でいても、受け入れてもらえるという)が築けたからなんだと思う。

2017年12月30日土曜日

なぜ私は茨の道を行くことを選ぶのだろう

皆が歩いている舗装された道を行けばいいじゃないか

敷かれたレールを辿ればいいだけではないか

普通に、良い大学を出て、人気の会社に入って、

普通に、自分の慣れた土地で、昔からの友達と付き合い、家族と支え合いながら、

普通に、良い人をみつけ、結婚して、その人の子供を産み、育て、その土地の学校に入れ、

普通に、入った会社で定年まで働いて、子供を大きく育て、孫を授かり、老後を平和に過ごせばいいじゃないか。

そういった選択をしてきたら、どれだけ楽だっただろう。

なぜ私は、人が通らぬ、厳しい道を、選んで通るのだろう。

思いもよらない、自分ではどうにもならないことが起こることも、人生だからある。私の人生にもあったし、そのアクシデントのせいで厳しい道を通らざるをえなくなったという事もできる。

でもそのアクシデントに際して、容易な道ではなく、あえて厳しい道を選んだは、私だったのだ。

1人で育てる、という道を選んだのは、私だった。

経済的に自立しながら勉強も続ける、という道を選んだのは、私だった。

日本に残るという選択肢もあったのに、あえてオランダ行きに挑戦したのは、私だった。

子供の父親とやり直す機会もあったのに、それを選ばず、自分の納得できる関係を築きたいと苦しみながら道を模索している

自分が決断したことだから、

自分の行動と選択に責任をもって、

と自分に言い聞かせるのだけれど

弱音をはきたくなる時も

普通の道を行っていればどんなに楽だったろうと思う時も

辛い時も孤独な時もある

子供にも普通の人生を送らせてあげられないことを悔しく、情けなく思う時もある

幸い、幸せに賢く強く優しく溌剌と育ってくれている娘がそばにいる。

でも、弱気になっている時は不安になる。今はよくても、この先、普通じゃない人生を送らせたツケが来るのではないか。彼女の人生に、何かしらの悪い影響が及ぶのではないか。

道なき道を行く私には、答えがない。

彼女を幸せにできているのだろうか?この道これから、私は歩き続けていられるのだろうか?

答えは出ず、他の人の助言をできる限り集めながら、躓きながら、疲れた時は立ち止まりながら、後ろを振り返り来た道を時折懐疑的に眺めながら、

私は歩き続ける。

2017年6月14日水曜日

ひずみ

インドネシアに来てから、いや、準備期間の間から、フィールドワークで成果をあげるという目的を果たすことに必死で、自分の体や心のニーズに耳を傾けることをおろそかにしていた。フィールドワークを初めて3ヶ月経った今、その結果としてひずみがでてきている。だから、書くということの力を少し借りてみようと思う。

いろんなことが一度におこっている。大きな渦も、小さな渦も、たくさんの渦が合わさって、飲まれそうになる。自分の立ち位置や行先が、見えにくくなる。

決めたことだから、大丈夫、あと⚪︎ヶ月だから、大丈夫、頑張れる、私がしっかり立って娘を守らなければ、と自分に言い聞かせながら、やってきたのだけれど、数日前、前に進みたくても足が動かなくなってしまった。

頑張りすぎないように、というのは、ここに来る前も来てからも、たくさんの人に言われたことだったのに、頑張りすぎない、というのは、私はどうもとても苦手なことのようだ。

「頑張りすぎないって、どうすればいいんですか?」と聞く私に、

「自分を褒めてあげること。よくやってる、頑張ってる、と、自分に言ってあげること。」という答えが帰ってくる。

 フィールドワークが体力的にも精神的にもかなり大変なプロセスだというのは、前から聞いていて覚悟していた。きっと忙しいんだろうな、とか、言語とか文化の理解に苦労するかな、とか思っていたけれど、一番大変なのは、いろいろなことが起こる「渦」に巻き込まれて、客観性を失うということかもしれない。

なぜ、私が今、ここにいて、がむしゃらにインフォーマントを探して、インタビューをして、ということを続けているのか。

目的を見失わないように、自分の日々の活動を大きな視点でみるようにしよう。

目の前の日々の小さな幸せには、目を逸らさないまま。

夜のうちに落ちたまだ新鮮な花たちを、朝家から出てひとつひとつ拾い集めるように。

常連になってしまった近所のカフェで、おいしいコーヒーを一杯、丁寧に味わうように。






2017年5月27日土曜日

母の日






フランス式では、明日が母の日。


バリでフランスの学校に行っている娘は、1週間ほど前から何やら学校で母の日のための準備をしているらしい。

You know mommy, I have a present for you on fete de maman! And it is a SURPRISE!
「そうなんだ(笑)What is the present then?
「えーっと・・・its a SURPRISE!
「(笑)Is it a flower?
No! It is a SURPRISE!

というようなやりとりを1週間ほどして、金曜日に学校から持って帰って来たのは綺麗にルミネートされた彼女の写真・手形にフランス語の詩が貼ってあった。

Maman, quand tu es en colère,
Je t’aime de travers
Maman, quand tu t’en vas,
Je t’aime couci-couça
Maman, quand tu es de bonne humeur,
Je t’aime de tout mon cœur
Maman, quand tu me cajoles,
Je t’aime sans parole
Maman, quand je te dis ce poème,
Comprends tu combien je t’aime ?
Bonne fete de maman!

簡単に翻訳要約すると、どんな時でもママが大好きだよ、ということを伝える詩。

帰りの車の中で、その詩を見て娘が暗唱し始めた。学校でみんなと何回も練習して覚えたのだという。完璧に暗唱し終わった後、英語に翻訳までしてくれた。

彼女がこれほどの詩を暗唱できるなんて思っていなかった私にとって、予想外のプレゼント。

母になってよかったなあ、と思う瞬間のひとつだった。





1年ほどかけて準備をしてきたフィールドワークを始めて約3ヶ月、中盤戦。

特にこっちにフィールドワークに来てからは毎日必死で生きている感覚なのだけれど、毎日必ず娘と一緒にいられる幸せを噛み締めている。

最初は、娘をヨーロッパに残し一人でしようと思っていたフィールドワーク。その方が住む場所を転々とすることもなく彼女にとって良いと思っていた。

でも、連れて行きなさいという指導教官の一言で決断することができた、娘と二人でフィールドワークに来ること。

ただでさえ不安だらけだった出発2週間前に、娘にホルモンの異常があり普通の健康状態ではないこととすぐに毎日の治療が必要なことがわかったこと。

皆が混乱する中で、きっと心配でたまらなかっただろう娘の家族も、私の決断を信じて「行くな」とは言わないでいてくれたこと。

同僚たちも、薬や注射の針を持ち運ぶのに必要な書類の作成にこぞって協力してくれたり、指導教官は心から心配して知り合いの専門家のお医者様と特別にアポイントメントをとってそれに同行して一緒に話を聞いてくれた。

もちろん、リスクを考えて、フィールドワークを中止あるいは延期することも考えた。そしてやっぱり娘をヨーロッパに置いていくことも。

でも、予定通り行くことに決めたのは、本当にいろんな人の協力のおかげである程度の安全な環境を築いてあげることが可能だと判断したこと、そして私のことを信頼し決断を任せてくれ、それをサポートしてくれる周りの人のおかげだった。





こちらに来てからまずすぐにバリで一番という評判の病院に行き、娘の安全のための必要事項を確認したにも関わらずそれがうまく全体に伝わっておらず病院が信頼できなかったり、同時に始めた研究がなかなか思う通りにいかずヤキモキしたり、時間と約束を守らないこちらの文化にがっかりしたり、 綺麗にしていてもネズミがでた棚を開けるたびに怖かったり、自分のインドネシア語がもっとできればと思うことがあったり、車を運転する度に命知らずで運転しているバイクたちに神経をすり減らされたり・・・と文句をあげればきりがないけれど。

でも、娘が学校でもすぐ友達をつくり毎日楽しく行ってくれて、たまに風邪をひいたり熱をだしたりしながらもまあ健康でいてくれて、気候や食事にもうまく順応してくれ、最初はそこらじゅうにいるトカゲ(ヤモリ?)などを怖がっていた娘が最近では触れるようになっていたり・・・。

幸運にも隣近所のお家にも同じくらいの年齢の子供がいて、私が朝寝ている間に隣に勝手にお邪魔して朝ごはんを一緒に食べているくらい仲良くなっていたり。

私の研究も、思うように進まなかった最初の1〜1.5ヶ月を過ぎたら、その間に用意していたクモの巣に獲物がひっかかってくるように、ポロポロと結果が得られたり。研究を手伝ってくれているアシスタントも、楽しんで研究を一緒にしてくれている。

こちらでかなりの人数から選んだ1人のナニーも、辛抱強くコミュニケーションをした結果今では彼女と娘を2人で残して夕方にインタビューに出かけることも安心してできるくらいに信頼できるようになった。



もちろんまだまだ課題や文句はたくさんある(インドネシア語がもっとできたらな、研究で頭がいっぱいの生活じゃなくて娘と向き合って楽しむ時間をつくらないとな、蚊にさされるのもデング熱が怖いわ、やっぱりみんないつも遅れてくる文化は私には合わないな約束は守ってくれよ、反対車線で猛スピードで突っ込んでくる車とかバイクとかは死にたいの?)けど、そういうのは二の次。



娘と一緒にいるのが当たり前で、助けてくれる夫や家族が近くにいるのが当たり前な家庭もあるのだろうけれど。

私はこうやってある意味特殊な道を選び、それでもこうやって娘と二人でいられるというシンプルな幸せが、本当に幸せ。

普通の道では決してない道だけれど、自分で選んだ道だから、何があっても進んでいける。