2014年4月7日月曜日

子供ができると変わること

フィリピンでの1ヶ月は、マネジメントやソーシャルビジネスの運営などでも学ぶことが多かったが、娘と離れて過ごした1ヶ月という意味でも気づくことが多かった。

もうすぐ一歳という繊細な時期に母親と1ヶ月離れる娘への影響ももちろんだが、出産してからほとんどずっと傍にいた娘と1ヶ月も会わないことは、私にとってもどんな影響を与えるか予測できなかった。

しかも、1ヶ月フランスにやることは、最終的には私自身が決めたこと。決定権は私にあった。

その決断をするのには何ヶ月か悩んだ。

経験者に意見を聞いたり、試しに1週間程離れて暮らしてみたり。

最終的にその決断を下した理由は、

1. フランスの家族が娘を愛してくれているから。彼らにも娘との時間をあげたいと思ったし、愛情を注いでくれる人がたくさんいる環境にいることは娘にも良いことだと思った。

2. これからも私と離れてフランスで過ごしたり、長期間どこかで預かってもらうことがあるかもしれないと思ったから。どこかの段階で慣れることが必要だと考えた。1歳という時期がそれに適切がどうかについては確信が持てなかったけれど。



その結果はというと、やはり、というか、最初の1−2週間は私にとって辛かった。

これでよかったのか、娘をフランスに飛んで娘を迎えに行こうかと考えたこともあった。娘と過ごす時間は何にも代え難いのに、私はフィリピンで何をしているんだろうと自分が情けなくなることもあった。

でも、そうやって不安がっていたのは、私だけだったのかもしれない。

というのも、私のその不安な気持ちをなだめてくれたのは、幸せそうな娘の姿を見たからだった。

ここに載せるのは控えるが、フランスの家族が送ってくれた写真がある。

フランスの(娘の)おじいちゃんが、娘をお風呂に入れている写真だったのだが、見つめ合っている二人の笑顔が素敵で、とっても幸せそうで、なんだか泣けた。

やはり私の判断は正しかった、と思えた。


帰って来た時に泣かれたりしたらどうしようなんて思っていたけど、娘は私を見てにっこり笑い、だっこを求めてきた。

私は1ヶ月ぶりのだっこで、彼女の重みに心地よさと安心を覚えた。

前と比べたらちょっとママに甘えん坊でわがままになった気もするが、それも成長の一部なんだろうと思う。




娘との関係性における自分自身について気づいたこともある。

娘といる時の自分と、そうでない時の自分では、やはり大きな違いがあること。

一番大きな違いは、自分自身について考える時間と余裕があること。日記をつけたり、自分自身を分析したりする時間は、意外に大切で、意外に意識しないと持てない時間だった。

2つ目は、助けられる立場から助けることができる立場になったこと。ソーシャルビジネスとして、途上国で、自分の得意なマネジメントをやっていたという環境要因ももちろんあるけれど、他の人に頼らざるを得ず周りからのサポートに感謝するばかりの状況と、自分が他人に手を差し伸べていける状況の差は、人の役に立つことが生き甲斐の私にとってはかなり大きい。 
3つ目は、自由。以前の記事でも書いたと思うが、子供との生活というのは重たい荷物を持って走るようなものだ。フィリピンでは、夜ちょっと外出するのも、どこで誰と何をするのも自分の自由にできた。ただ、その自由は、あれば堪能するけれど、今の私にとって特にほしいものでも必要なものでもないことにも気づいた。

4つ目は、他の人への気遣いや思いやりに割く時間と余裕がぐっと増えること。子供ができてからずっと意識していたことだった。娘と一緒にいると、80%はそちらに意識がいっている。友達と話していても、100%聞いて、考えて、答えているとは到底言えなかった。そんな自分をもどかしく、不満に思っていた部分があった。



2つ目3つ目は別にして、どうすれば1つ目と4つ目を、娘と一緒にいる時にもできるようにするか、を考えていたのだけれど。

最近、同年代の友達と話していて、娘ができてから自分を含め彼女以外の人のことを気にかけたり思いやったりすることが難しくなった、ということを相談したら、

「でもそれって当たり前じゃない?子供の存在ってこんなにおっきくて、子供を育てるってすごいことで、最初の数年は他の人の存在が薄くなるのは、当たり前のことだよ。」

はっとして、常に今の自分を出産前の自分と比べている自分に気がついた。

出産しても、子供がいても、自分のやりたいことはできる。「母親」だけじゃなくて、一人の「女性」としていられる。妥協しなくて良い。出産前の自分と変わらない。出産前の自分に負けたくない。

そんな気持ちでいたかもしれない。

子供という、かけがえのない存在を得た分、もちろん失うものだってあること、認めてあげられていなかったかもしれない。




子育ては、自分育てである。

フランスの哲学者クリステヴァは、母性愛は、女性(のみならず男性も)が性的欲望から自己愛段階へ、そして社会的な愛へと脱皮していくというプロセスをたどらせる必然性を有していて、その意味で「最高に自己を高める方法」であると言っている。

十数年の子育てのプロセスの中で、親は成長し、最初は自分一人で精一杯だった度量みたいなものも、だんだんと大きくなってゆく。それと同時に、子供も手がかからなくなっていく。

今は、目の前のことを必死にやって、あとはそういった自然のプロセスに身を任せてみてもいいんじゃないか、今の自分も許してあげてもいいんじゃないか。

と思い、今日も娘のためにご飯をつくる。最近は自己主張もはっきりしてきて、要らないものは要らない、ほしいものはほしいと全身で主張する。

自分のためのご飯をつくるのは別に好きでないけれど、娘が食べやすいようにと、野菜を小さく切って料理するのは、私のお気に入りの時間の1つである。