2020年12月28日月曜日

前を向く。

1、2ヶ月まえくらいから少しの間、大きな決断を迫られることがあった。

詳しくはここには書けないけれど、選択肢の1つは、日本の大学で、私の年齢やPhD取得後1年も経っていないことを考えると普通はあり得ないほどの良いポジションのオファーがあった。環境としても、日本の大学では他に比がないほど国際的で、私の興味分野にも合い、日本の大学で働くならここ以上にいい環境はないだろうと思うところだった。今の大学業界、特に社会科学分野、安定したポジションは世界中をみても本当に少なく、優秀な人であっても「運」がないとつけない。そんな今の状況のこの業界にいる人なら「喉から手が出るほど」ほしいポジションだと言われた。

そしてもう一つの選択肢は、オファーを受けずに、今私が取り組んでいる研究と講義をそのまま進めていくこと。難しい内容だけれど興味を持って取り組める研究をかなり自由にやらせてもらえ、でも講義や他の仕事もある程度責任をもって任されているという今の環境は自分ではかなり気に入っていた。それでもこのポジションは数年の契約なので、その後のポジションがどうなるかという確証はない。いわゆる「ポスドク」といわれる期間には、こういった短期のポジションをいくつか渡り歩きながら、安定したポジションを探すというのがセオリーで、安定したポジションが見つかればそっちをとるというのが普通の考え方だ。

どちらを選ぶかによって人生は大きく変わる決断だし、めちゃくちゃ考えて、悩んで、最後の最後まで悩んで、結局1つめの選択肢を選ぶことにした。「どう考えてもそっちを選ばない理由がない」と言われたし、自分でもそれはそうだと思った。

で、オファーを受けますと連絡してから、説明のしようのない気持ちに襲われた。今でも、それを「気持ちがついていかなった」としか言い表せず、なぜそんな気持ちになったのかよくわからない。でも、頭では受けよう、受けたい、と思っても、心がどうしようもなく逆らっていた。で、数時間後、「やっぱりできません」というメールを、その時に自分にできる最大限に正直な説明と、謝罪の言葉とともに、お送りした。

返事がギリギリになったことで迷惑をかけたことや、ひとつを選ぶことで手放さなければいけなかったものの重みもずっしりとのしかかり、わかっていたものの、うじうじと悩んだ時期がその後数週間あって。今は、やっぱりあの時自分の気持ちに従っていてよかったと思う。自分の今までの人生を振り返ってみると、向こうみずで、周りから見たら無鉄砲で馬鹿らしい選択でも、自分でも説明できなくても、自分が直感でこれでいいと思える選択肢の方をとってきたし、それで後悔したことはない。

自分で選んだこと、それは自分の頭や固定概念や理性やリスクを考えて計算して選んだという意味ではなく、自分の中にあるそういったものには影響を受けながらも、それでもそれらの枠の外で、少し離れたところで決断すること。そういうふうに選んだことならその道がどんなに険しくても不安でも大変でも頑張っていける、と、思う。それは、人がいうように「まだ若いから」なのか、「私らしい」生き方(これはまた別の人に言われた)なのか、わからないけれど。

ご縁も大切にしたい。自分がはじめたことは最後までやり通したい。自由は必要。でも安定も自由をうみだす。名声や世間体のようなものに惹かれる自分もいる。そんなに若くして未婚で子供を産んで、せっかく前途があったキャリアがもったいない、という人たちを見返したいという変な反骨精神みたいなのもあった(る)。でも結局は、そういうのは「残らない」ものなんだろうなと思った。

出産後に読んだこの記事。https://www.theatlantic.com/magazine/archive/2012/07/why-women-still-cant-have-it-all/309020/ 今回の決断で悩んでいた時にも読み返してみた。女性(母親)とキャリアについて書かれた記事で、長時間労働を強いられがちないわゆる「キャリアを積む」ということと、女性が母親であり子供と時間を過ごし「たい」と思うことがいかに矛盾しているかということが書かれている。

「キャリアを積む」ということは、「自分が楽しんでできる仕事を選びとっていける」という意味だと私は思っているけれど、世間一般的には「キャリア」とは名声や収入のある仕事に就くことと同意義で使われることが多い気がする。そしてよくよくみてみると、そういった名声のある仕事は、仕事以外の時間がなくなるほどの長時間労働だったり、ストレスの多い仕事であることが多いと思う。そのせいで比較的収入が多くても、時給にするとマクドナルドのバイト並み、というような話も聞く。そんな「キャリア」は、それで名声を得たとしても、それだけの価値のあることだろうか。ストレスにまみれ時間に追われ、本当の意味で「生きる」ことを疎かにしてしまわないだろうか。

娘が産まれてから、私の中の優先順位一番目は揺るぎなく疑いなく彼女で、彼女との時間で、彼女の成長を傍で見守りその過程を助けることだ。彼女との時間を大切にしたくて、多忙になる「キャリア」の階段を登らないことを選ぶのは、女性として、母親として、「キャリア」を犠牲にすることなのだろうか?

私は違うと思う。たしかに、「キャリア」というものを名声や収入など世間一般で使われるようなものとして捉えると、子供との時間を優先して昇進などを断るのは「キャリアを犠牲に」しているということになるのかもしれない。でも、私はそういった一般常識や固定概念のようなものとは離れたところで自分にとっての人生や楽しさを見出したい。そして、私にとっての「キャリア」とは、自分が楽しんでできて、自分と娘を養っていけるだけの収入が手に入り、やりがいはあるけれど自由で、仕事にのまれてしまわないほどに時間が確保できる。そんな仕事であり、それはたぶん、世間一般にハイキャリアと呼ばれるものとは別物な気がする。そういう仕事をつきつめていった結果、いわゆるハイキャリアと呼ばれるようなものに行き着くことはあるかもしれないけれど。

今年、私は、2人もの友人を亡くした。一人は今年の初めごろ、胃癌だった。50歳で亡くなった友人は、タバコはやらない人だし、3人のまだ幼い子供と奥さんを残して逝かなければならなかった。もう一人も50代で、白血病と類似する病気だったという。彼らと会って話ができること、彼らへ送ったメッセージに返事が来ること。そういう当たり前に思っていたことが、ある日突然できなくなってしまうこと、そして彼らがこの世界にいないということが自分の世界が変わってしまうような自分の存在感を揺るがすような出来事であっても、それでも世間は、世界は何もなかったようにいつも通り続いていくこと。

だから生きているということは奇跡で、「生き残る」ためだけに使うよりも、きちんと「生き」たい。

ここ数ヶ月、ジムへ行くまでの道でよくBIG ISSUE(ホームレスの自立支援のための雑誌)を購入する。450円の雑誌を1冊売る毎に、販売員の方には200円程が収入になる仕組みらしい。私がお釣りはいいですと500円玉を渡すと、「大切に使わせてもらいます」という返事が返ってくる。そのBIG ISSUEの最新号に、作家の西加奈子のインタビューが載っていた。「選ぶということは選ばなかった方を捨てるというふうに考えがちだけれど、本当は、選ばなかったほうに支えられるということもある」。正確な文言は覚えていないけれど、そんな趣旨のインタビューだった。

そう、だから、とにかく、前を向く。楽しく過ごせる方法を探し、見つけ、創造し実行していく。自分の周りに溢れている美しいものを愛でる。多くを望まない。けれど妥協はしない。

2021年の抱負。
(1) 前を向く。晴れの日は晴れを愛し、雨の日も雨を愛す。
(2) 美しいものに触れ、自由と感性を大切にする。
(3) 自分の理想を描いていく。楽しいことを創り、実行していく。