2014年9月28日日曜日

違いと、多様性と、寛容性

ライデンでの研究が終わった。

怒濤の5週間だった。

どうやってこの5週間を最大限に活用しようか、と常に自分に問いかけながらの滞在だった。

この滞在で、他の国でも娘と研究を両立できるという自信がついたし、それにやっぱりライデンで研究したいという気持ちが確信になった。

研究のためのベストの環境だというのがひとつ。

もうひとつは、ライデンというか、オランダというか、ヨーロッパというか、の居心地の良さだと思う。

私は生粋の日本人だし、私の国はなんだかんだいって日本だと思っているし、私の故郷は家族のいる、そして私が18年間過ごした関西だ。

毎回海外から帰る旅に日本食とお風呂の素晴らしさに感動するし、日本が嫌いなわけでは全くない。

ただ、なんだか居心地の悪さを感じることがある。

それは日本にいる時に感じるのではなくって、外に出た時に、「ああ、私は今まで何かに縛られていたんだな」という「開放感」を感じることがある。

その理由を考えているうちに、日本社会のもつ「スタンダード」にそぐわなくてはならないというプレッシャーに気づいた。

特に私のように日本では「マイノリティ」なステータスや性格(というか態度、行動?)を持っていると、その社会的プレッシャーは 自分でも知らないうちに負担になっているんだなあと気づかされる。

その点、オランダでは多様性、違いを尊重する文化がある。

だから、私の変わったプロフィールでも、その枠でではなく、私を個人としてみてもらえているような気がした。

研究の現場では、私が若いとか、女だとか、母親だとか、関係なく、私が考えていること、やっていること、やりたいこと、そういったものだけをベースに純粋に評価してもらえた。

これが国民性の違いだとかいう一般化はしたくないし、もちろんこれは私が感じていることだから他の要因も関係しているのだと思う。


けど、日本は、日本人は、一度、「違い、多様性に対する寛容性」について考える価値はあると思う。

前にお世話になっている年上のオランダ人の人に「日本に必要なものは何だと思う?」と聞かれた時に、「diversity(多様性)」だと即答していた私を思い出す。

違いを認めるのは規模や程度の大きさに関らず、容易なことではない。

この世界には、それ(違いをただ違いとして認めること)ができれば解決される紛争や問題がたくさんあるような気がする。

私だって完璧にできているわけじゃない。

娘の育て方の方針とかいったことで、娘のフランスの家族と意見が違うことだって多い。(この前も、寝かしつけ方のことで口論になった)

クラスメイト(私のプログラムは半分以上が外国人だ)や共同研究者(オランダ人)と一緒に研究していると、違いに直面せざるをえない場面も多い。(ミーティングの仕方から、ものの言い方まで・・・)

でも、違いの認め方なんていうのは、こういう小さいこと、日常でおこることからクリアして、 学んでいけるものなんじゃないかと思っている。