2016年1月4日月曜日

2016年の抱負

私が高校の頃毎日テニスに明け暮れていた時も、大晦日と元日だけはテニススクールも休みで家で家族と過ごした。

それくらい、お正月というイベントは日本人として日本で育ってきた私にとって大切なものとして染みついているんだなあと思う。

今年は絶対に日本で年越しをして、家族とできる限りの時間を過ごそうと1年前から決めていた。

昨 年亡くなったおばあちゃんの代わりにおせちを用意してくれるおじいちゃん。勉強の合間にお茶を入れて持っていくと泣いて喜ぶ妹、夜勤の合間にせっせとお雑 煮を用意している母、私の娘と楽しそうに遊ぶ父。フランスから大きな段ボール箱いっぱいのプレゼントを送ってくれるフランスの家族。そして私の娘のパパが 暇さえあれば絵本の読み聞かせをしている姿を見ると、歳をとるということは大事なものが増えるということなのかな、なんて思う。

大事なものが増えると、難しい決断も増える。

ずっ と夢のように思っていたオランダライデン大学の研究機関での仕事が思いがけず決まった時も、娘の学校のこと、寂しくなると言う日本の家族のこと、新しい生 活のこと・・・を考えると、嬉しいはずの移住もなんだか後ろ髪をひかれるような思いでやっぱり断ろうかと思うこともあった。

それでも最終的にむこうに行く決断をしたのは、結局のところ「きっとこの道にいけと言われているんだ」という導かれているような感覚と、あと不安要素は「なんとかなる」だろうという自信のおかげなんだと思う。

娘にも、言語や友達、食べ物までいろいろな変化を経験させることになる。申し訳ないと思う反面、そんな変化のネガティブな面を最小限に抑えながら、ポジティブな面を最大限に活かす方法はないかと日々模索している。

そんな大きな変化が待ち構えている、今年の抱負。

1)余裕をもつ
また新しい土地で娘と共に生活や人間関係を築いていくことは間違いなくエネルギーの要ることだし、学術的にも仕事という意味でも今までよりもチャレンジングな環境に身を置くことなる。
だからこそ、あえて余裕をもつことを今年の目標にしたい。母親に時間的精神的余裕があることは、娘にとっても必要なことだと思うから。

2)謙虚に学ぶ
25年前、私に名前をつけてくれたのは私の父だったそうだ。
「実るほど、頭の垂れる稲穂かな」という言葉のように、えらくなるほど謙虚になれる人になってほしいと。
えらくなるほど謙虚になるというのは自然なことなのだと思う。
実際に、物事を知れば知るほど、本を読めば読むほど、いろんな人に会えば会うほど、自分がいかにまだ何も知らないか、未熟かを痛感する。
これから4年間続けようとしている研究においても、この姿勢を忘れずにいたい。

3)わずかなもので、豊かに生きる
「わずかなものしか持たずに 生きられる人ほど豊かである。」というヘンリー・デイヴィッド・ソローの格言がある。
物質的な所有物もそうだが、人間関係も、多くを持たず、淘汰された後に残ったわずかな物を大切にしたいと思う。
それが私なりの心豊かに生きる方法だと思うから。

2015年8月11日火曜日

ある偶然と道の話


最近、「ああ、幸せだなあ」、と感じることが多い。

それは修士課程を無事終えることができたからなのか、博士課程で研究を進められることになったからなのか、娘が2歳になって「赤ちゃん」ではなくなってきたからなのか、自分の中で長い間蟠っていた問題が解決に向かいつつあるからなのか、それとも単に夏だからなのか。よくわからない。

でも、きっとそれはいろんなことの積み重ねなんだろう。

子供ができて、大学院で研究を始めてからの2年間育ててきたいろいろな種が一斉に蕾をつけているような感覚で。でもそれはまだまだ蕾で。でもだからこそこれからどんな花が咲くのかが楽しみで。

とにかく、一区切りなのだ。
 

そうやってできた修士論文を発表するべく参加した学会で、思いがけず、同じところを目指して頑張っていると思えるような人と出会った。

研究テーマも、興味も、将来携わりたい仕事も、なんだか似ていた。

学会の後でお礼のメールを送った時、ふとその人の名前をメールボックスで検索すると、予想外に3年前のメールが出てきた。


オランダに留学していた頃に出会った、私が最も尊敬する女性からのメールだった。

そのメールには、「あなたと似た相談を受けて、今日ある日本人の方とおしゃべりしてきたところです」とあり、「もしよかったら連絡をとってみてください。」とその「ある日本人の方」の名前とメールアドレスが書かれてあった。

そう、その「ある日本人の方」が、今回の学会で出会った「同じところを目指している女性」だったのだ。

 
3年前の私は、大学院に行くべきか、就職するべきか、JICAの青年海外協力隊に応募するべきか、迷っていたようだった。

そしてその「最も尊敬する女性」に相談していたのだ。

「ある日本人の方」も、3年前同じような悩みをもち、彼女に相談をし、3年間前に進み、そして3年後の今、大学院に所属し法整備支援に関する学会に出席していたのである。


信ずる道をむ者に信ずる人との出会いがある 

3年前のあの時こそ連絡しなかったものの、同じところ見つめて歩いていれば、きっと会うべき人とは会うべき時に会うようにできているのだなあと思った。

「最も尊敬する女性」は、私よりも職務経験も文章力も知識も人間力も何をとっても敵わない(だからこそ最も尊敬する女性なのだから)し、その「ある日本人の方」も、私よりも職務経験も、きっと知識もずっと豊富だし、同じところにいるなんて思わない。

それでも、何よりも嬉しかったのは、「ひとりじゃないんだ」と感じられたからだった。

私の進む道は「多くの人が通る道」ではない。

今まで、1人で 茂みをかき分けながら進んでいたような感覚があった。

彼女と出会って、こうやって道なき道を進んでいくのに、「ひとりじゃない」ということが、どれだけ心強く感じるか、どれだけの自信を与えてくれるか、わかった。
 

その女性は30代。私の尊敬する女性は40代。そして私は、25歳。





その女性たちの関連で、もうひとつ感慨深かったことがある。

実は、4年前オランダで「最も尊敬する女性」と初めて顔を合わせた後、「娘が大きくなったら、この人みたいな素敵な女性になってほしい、と思えたのは初めてでした」と、私には勿体ないような言葉をもらっていた。

その時、私はなぜそんな風に言ってもらえたのか全くわからず、「この人はきっと優しい人で、皆に同じような素敵な言葉をかけているんだろうなあ」と思ったくらいだった。

時を重ねて「最も尊敬する女性」を知っていくにつれて、意味のない お世辞や安易なことは言わない人だということがわかったのだが、それでも私の中の何が「娘が大きくなったら〜」と思わせたのかは未だにわからない。

でも、あえて質問をしないのは、4年前のその言葉が今でも私がalways be better than yesterdayでいるためのモチベーションとなっているからだ。

「彼女は、今の私をみても、おなじように思ってくれるだろうか」

特にここ2−3年は、そんな風に自分をけしかけて前に進んできた。

 
それが、学会で「ある日本人の方」に出会った時、ふとその言葉を思い出して、「娘が大きくなったら、この人みたいな素敵な女性になってほしい、と思えた」というのはこういうことなのかな、と考えていた。

その人みていると、自然と自分の娘が大きくなったら・・・という想像がふくらんだ。


そのあと、「最も尊敬する女性」からのメールを見つけて予想外の繋がりがあったことを知った時、隣で積み木遊びをしている娘を見ながら、この不思議な偶然に思わず涙した。
いきなり泣き始めたママに、娘は不思議そうな顔をして「どうしたの?痛いの?大丈夫?」と心配している。

私は「ママね、嬉しいの。」と答えた。


ああ、私は、尊敬する女性に「娘が大きくなったら彼女のように」と今でも思ってもらえるように恥ずかしくない生き方をしよう、そして娘が「ママみたいに素敵な女性になりたい」と思えるような強い生き方をしようと思って今までやってきたんだ、ということを、この偶然が気づかせてくれたようだった。





いつのまにか秋が終わり、冷たく暗い冬を乗り越え、春の花が散ったと思えばもう夏の花が咲いている。

時の流れを感じさせてくれる四季は美しい。

この夏も、またすぐに終わってしまう。

時の流れの早さに負けないように、もっと前進したい。

もっと早く、もっと遠くまで。




 


の前に道はない

の後ろに道は出来る

ああ自然よ

父よ

を一人立ちさせた大な父よ

から目をさないで守る事をせよ

常に父の魄(きはく)をに充たせよ

このい道程のため

このい道程のため


詩:高村光太郎

2015年4月23日木曜日

見えない天井はどこにある?


数年前、ミャンマーでインターンシップをしていた頃の経験を基に書いた記事がある。


「政府の目はどこにある?」

検閲から解放されたはずのミャンマー市民が、いかにその影から逃げられずにいるかという話。

「検閲」というものが物理的になくなっていたとしても、長年縛られてきたものを心理的に拭い去るには時間と度胸が必要なのだ。




日本社会はずっと、「ガラスの天井」があると言われてきた。

※「ガラスの天井」=(glass ceiling)
組織内で昇進に値する人材が、性別や人種などを理由に低い地位に甘んじることを強いられている不当な状態を、キャリアアップを阻む“見えない天井”になぞらえた比喩表現。

この言葉は特に女性の社会進出、昇進の厳しさを表す言葉として使われてきた。

実際にガラスの天井があって、上にいこうとする意欲のある女性が頭打ちになった時代もあったんだと思う。今でも、実際にそれが現実であるコミュニティーや会社、社会もあると思う。

でも、今の日本では、世界では、ガラスの天井はだんだんと破られてきているのではないか。

実際に、未だにガラスの天井があるのはどれくらいのコミュニティーなのだろう。

ガラスの天井という「ガラスの」と言われるのは、それが見えないことの比喩表現である。

見えないのなら、どうして、そこにまだあるのかないのかわかるのだろう。

私たちの先人がその「見えない」天井に頭打ちになっているのをみて、私たちは自身の頭の中に別の「見えない」天井を作ったのではないか。

本当にそのガラスの天井が今でも存在するとしたら、それは誰が確認したのだろう?

存在の是非を確認するには、誰かが頭を打つ覚悟で上に行く他にないのではないだろうか?

もしかしたら、そのままひょいっと、上にいけてしまうのかもしれない。

そしたらそれを見ていた他の女性も、きっと上に行ってみようという気になるのだろう。

実際に「confidence gap」という研究結果がある。
http://www.theatlantic.com/features/archive/2014/04/the-confidence-gap/359815/
(英語記事。長いです)

一部抜粋
"A review of personnel records found that women working at HP applied for a promotion only when they believed they met 100 percent of the qualifications listed for the job. Men were happy to apply when they thought they could meet 60 percent of the job requirements. "


「HP(ヒューレット・パッカード)社員の個人データの集積によると、女性社員はあるポジションが求める要件の100%を満たしていると確信した時にしか昇進願いを出さないことがわかった。それに対して男性社員は、要件の60%を満たしていれば意気揚々と昇進願いを出したという。」

つまり、能力のあるなし、結果がどうなるかに関わらず、女性は男性に比べてまずトライをする自信が少ないのである。それは、彼女たちの頭の中には見えない天井があるからなのではないだろうか。




今、私自身が日本社会で若い母親として過ごして感じるのは、ここではガラスの天井どころか「ガラスの箱」の中に閉じ込められている(と感じている)女性・母親が多いということ。

誰かがひょいっとでてしまえば他の人ももう少し自由になれるものを、画一的な社会や生き方がよしとされる日本社会ではなかなか、出る杭になって出て行こうとする人も少ない。

「母親なんだから」「女なんだから」「もう歳なんだから」

そんなガラスの壁たちを自分の周りに張り巡らせているのは、社会でもなく、男性でもなく、彼女たち自身なのではないだろうか。




と言っているのは、私自身がつい最近、自分で作っていたガラスの壁に気づいたからでもある。

私は名声とか地位とかは気にしない方なので、上に行きたい、(だから天井が気になる)というよりは、自分たちの(私と、娘の)世界を広げたい(だから壁が気になる)という欲望がある。

母親になっても、何歳になっても、その欲望は志として持っておきたいな、と思っていた。というのも、娘にも大きなスケールで世界をみていてほしかったから。

だから、娘ができてからも、妊娠中はミャンマーやアメリカに行き、名古屋で勉強しながら、夏はヨーロッパで過ごし、研究もオランダやインドネシアと名古屋を行き来しながら、機会があればフィリピンでインターンシップをしたり、東京に出かけたりと、他の母親や学生に言わせると「クレイジー」なくらい飛び回っていた。

そうしているうちに、名古屋での修士課程も終わる。論文を書きながら、その後のこともいろいろ考える。

博士課程に進むにしても、名古屋にいる必要はないという太っ腹なプログラムと、理解のある指導教官に恵まれているため、どこに住んで何をするかという選択肢は無限にある。

フランス、オランダ、インドネシア、アメリカ、イギリス、東京・・・。

その時、私は、いろいろな条件(保育園とか、金銭面とか)を考えた上での「できること」から「可能な選択肢」を見出し、そこからどの選択肢にしようかという方法で決めていたのだ。

私が勝手に持っている持論の中の1つに、「誰と過ごしたいか」(who)がわかっていれば、「どうやって」(how)は自然とついてくる、というのがある。だから例えば、遠距離恋愛だってへっちゃらだと思っている。

それならやりたいことだって一緒なはずじゃないか。なぜ、(自分のため、娘のため含めて)「やりたいこと」(what)から「どうすればそれができるか」(how))を考えていないのか。

それを気づかせてくれたのは、パートナーだった。

「でも、この選択肢だと保育園がどうなるかわかんないし」「名古屋でいれば安心安泰だし楽しくやれるし」

などと言っている私に喝を入れてくれ、「娘にとっていい道と、自分のキャリアと幸せにとっていい道」を両立できる「やりたいこと」を考えることからまずはじめて、そこから「それをするにはどうすればいいか」を考えることを思い出させてくれたのは彼だった。



「やりたいこと」から考えた結果がどうなるかはまだわからない。けど、少なくとも今の私の周りには、もうガラスの壁はないし、私がそのガラスの壁を突っ切っていく(実際にないんだから、「突っ切る」とも言わない?)ことで、同じような壁をみていた他の人にも、「勇気を与えられるような存在」になれればいいなと思う。

そして、こうやって「型」をやぶっていく女性、母親は、絶対に私だけじゃないから、そういう人たちに目を向けて、どんどん自分の頭の中の壁を壊していけばいいと思う。

そして、そんな型破りな人たちは、マイノリティーになることや、一部からの反発を恐れずに、どんどん発信していってほしいと思う。

2015年3月31日火曜日

子育てが大変なのは悪いこと?




この動画をみて、ふと気づいたことがあった。

ああ、私は頑張っていたんだ。
そして何より、頑張っていることをみんなに見せないように必死になっていたんだ、と。

そして、頑張っているところを見せたくなかったのは、きっと「子育ては大変」というネガティブなイメージを払拭したかったからなんだろうと思う。
「勉強との両立なんて大変だね〜」と言われるのが嫌だったから、人一倍効率的にやってきたし、「子供ができるとやっぱり自由と時間がなくなるんだね」と思われるのが嫌だったから、今まで通り外にもでかけたし、自分の時間もとるように心がけてた。

先日、ふと参加したイベントでたまたま会った人と話していた時に、彼が「子供をもつと幸せ度が下がるという統計結果がある」と、自分が子供を持つつもりがない理由として話していた。
社会学者として、そして一人の母親として、その統計の方法とサンプルの選び方と質問の仕方と結果を全部まとめて見せてから言いなさいと思ったけれど、そこで異常に反発(心の中でだけれど)している自分に気がついた。

子育てで大変な思いをすること=不幸せ 
という公式ができているような気がするのは私だけだろうか?
そして、そんな公式ができてしまっているのはなぜなんだろうか?

例えば、アスリートが寝る間も惜しんで、怪我なんかもしながら、他のことを全て犠牲にして練習する大変さは、「努力」として評価の対象になる。
もっと身近な例でいうと、高校の部活に情熱を注いで大変な練習を乗り越えていることは、みんなからの賞賛の対象だった。実際に私は中高テニス部で、テニス以外のことをしている時は食べている時か寝ている時かお風呂に入っている時くらいしかない、というような生活をしていた。その時は、本当に大変だったし、しょっちゅう泣いていたし、身なりなんて気にしている暇もなかった。でも、その時は周りの皆は「努力の証」として見ていた。

実際に、何かを成し遂げようと思ったら、それがどんなことであろうとも、大変なことや苦労は避けて通れない。成功も、達成も、充実感も、その大変さがあるからこそ価値のあるものになる。

それが、なぜ子育ての大変さとなると、子育て中のママが疲れていたり、寝ていなかったり、身なりを気にしていかなったりすると、「不幸せ」のイメージがつきまとうのだろう?

ひとつの違いとして思いついたのは、子育ては他のことと違って「途中放棄」ができないということだった。
他のこと、例えば部活の例だったら、辞めようと思えばいつでも辞められる。ということは、大変な思いをしながらも続けているのは、自分の意思と決断でしているということだ。
それと違って、子育ては途中でやめられないからいつの間にか「義務」とみなされるようになるのだろうか?

そういえば最近読んだ本の中に、「選択の科学」というものがあった。
その本の中で紹介されていた数ある実験の中の1つの結果に、「人は自分で選んでやっているわけではないと感じている物事をする時に、選んでいないということ自体に不幸感を感じる」というものがあった。

でも、子育ても、強制されてやっているわけじゃない。ほとんどの人が、産みたい、産もうと思って決断して産んだはず。なら、その決断を自分の選択として自信を持っていいはずではないか。

最近では、子育ての大変な面が異常にクローズアップされて、政府の子育支援・出生率上昇政策はその大変さを軽減するためのものばっかりだ。
たしかに、子育ては楽じゃない。それは自信を持って言える。
でも、子供をもつことは、子供をもってからしかわからない(少なくとも、私は子供をもつまでわからなかった)楽しさと、その苦労が全部ふっとぶような幸せを感じる瞬間がある。
それは、保育園にお迎えに行ったときに私の顔をみて「ママー!」と満面の笑みで走って来る娘を見た時だったり、彼女がもっているみかんの半分を「ママも!」と差し出してくれた時だったり、絵本を読みながら膝の上で寝てしまった寝顔を見ている時だったり。

自分の強みも弱みもわかったうえで、どちらもさらけだして「これが私で、そんな私が私は好きなの」と言える人はきもちいい。
それなら私は、子育ての大変さも楽しさも包み隠さず見せて、「子育てって、めっちゃ大変だけど、めっちゃ楽しいから、そんなふうに子供をもてることが本当に幸せ」って言えるようになろう。

2014年12月31日水曜日

2014年の振り返りと2015年の抱負。


Pelabuhanratu(女王の海)のビーチでの夕日。



インドネシアの交通渋滞は、自他ともに認める社会問題である。


人々は、常に渋滞状況を考慮に入れて行動しなければならないし、渋滞のせいで遅刻なんて日常茶飯事(もはや本当に渋滞のせいなのか、渋滞が言い訳に使われているのかわからない)、ジャカルタの人が早起きなのも渋滞を避けるためだそうだ。

でも、実は私は渋滞が嫌いじゃない。

というのも、渋滞に巻き込まれた交通機関の中では、「考える」こと以外にできることがないから。

乗り物酔いをしない人は、ガタガタ揺れるバスの中だって本を読んだりできるのかもしれないが、三半規管が敏感な私では5分でダウンしてしまう。

だから、常に生産的なことをしていたい私も、この状況には逆らえない。じっとしてじっくり考え事ができる、かなり贅沢な時間なのだ。

最後のインタビューを終え、ガタガタ揺れるバスの中で7時間、年末にいつもしようと心がけている今年の振り返りと来年の目標設定をしていた。



今年は、試行錯誤の年だった。

は、親になると、1人から、ふたでひとりになる。

ひとりふたりになると、今までの自分のあり方を一度壊さなければいけなくなる。

自分のアイデンティティーを、一から作り直すような感覚だ。

特に子供が小さいうちは、どこにいくのも子供と一緒だし、一緒でない時も、人は子供と自身の2人を「セット」としてみる。

保育園にいくと先生達はみな「○○ちゃんのお母さん」と呼ぶし、大学に行くとまず「○○(娘の名前)元気?」と尋ねてくれる。

振る舞いも、頭の中も、計画だって、親になる前の「私」がしていたようでは通用しない。

今年は、そんな自分に戸惑いながら、失敗ながら学び、少しづつ土台のようなものを築きあげた年だった。

新しい土地で、一から人間関係と信頼を築いた年でもあった。

来年は、その築いた土台から、飛躍する年にしたい。

ということで今年の抱負。


1)アグレッシブにいく。
こんなことを抱負にあげると、「アグレッシブは十分だから、ちょっとは落ち着け。子供もいるんだし。」という声が聞こえてきそうだけど・・・
 子供がいることで、守りの態勢に入りがちだからこそ、あえて自分にこれを言い聞かせたいと思う。

2)自分に正直になって、自分を理解する。
最近になって、自分のことを理解することが、選択だらけの人生において自分の道を歩むために大切で、同時に難しいことであることにも気づいた。
自分のいる環境、周りにいる人に順応、適応する努力も必要だけど、嫌いなものは嫌い、違和感は違和感、と自分に正直になることは自分を理解するために必要なことだと思う。

3)他人にポシティブフィードバックをする。
私は他人を理解するのが好きで、努力しなくてもポジティブな面と、同時にネガティブな面が見えてしまうことが多い。今年はこの能力をうまく使いたい。
ポジティブなことは、照れずに意識的に相手に伝える。
ネガティブなことは、必要なときは相手にとって効果的な言い方を考えて伝える。

4)生活はシンプルに。
優先順位の低いものはできるだけシンプルにしてルーティーン化する。
そうすることで優先順位の高い大切なことに集中できる。



また半年先にどこにいるかわからないような生活をしていますが、離れていても、どこにいても、自分にとって大切な人を大切にできるようにしたいと思っています。2015年もよろしくお願いします。

2014年12月19日金曜日

変わることと進むこと


5年ぶりのインドネシアに向かう飛行機でこれを書いている。

関空で搭乗時間ギリギリまで母と他愛ない話をし、駆け足でゲートに向かいながら、胸の中に小さな不安を感じた。

この不安のはっきりした理由はわからないが、5年ぶりに同じ土地に舞い戻るということは5年前の自分と今の自分との違いを直視しなければいけないということであり、そして自分でそれを知る良い機会であるように感じた。

5年前、初めての海外長期滞在の地として降り立ったジャカルタは、無垢だった私にとって新鮮でこの上なく刺激的だった。

英語は日常会話レベルも怪しかったので、電子辞書を持ち歩き、それを使いながらなんとか同僚たちと会話した。

ホストファミリーとの食事では、英語が堪能なホストブラザーたちが発する英語のジョークがわからずに、申し訳ない気持ちになった。

語学もままならず、スキルも知識もなかった大学1年生の私は、それでも自分にできることは何かを必死に考え、日本の四大公害病である水俣病のポスターをまるめて持って行った。そして、水俣病を通して環境啓発をしようと水俣展を企画した。

そういえば、そのとき、自分にもっとスキルがあれば、もっと知識があれば、専門があれば、人に助けてもらうだけじゃなくて人に役立つことができるのに、と思ったのが、それから学問を続け、留学もした理由だった。

そして今気がつけば、研究者としての道を選びインドネシア法を専門にしようとしている。

研究者として、どうしたら社会に貢献できる研究ができるのか。

これはマスターコースに入ってからずっと問い続けてきた問いである。

私は研究という行為が好きだと思う。

机に座って、本を読み、頭で考え、書くことが好きだし、自分のやりたいことを、価値があると思うことを自分の裁量でできるところが自分に合っていると思う。

ただ最近、研究者でいるだけでは物足りない、と感じている。

教授方にはまだ研究者として一人前でもないのに生意気な、と言われるかもしれないが、研究をしているだけでは満足できない。

私は自分の研究を活かして、直接的な支援がしたい。

国際社会は当たり前のように、「child marriageは撲滅すべきだ」というけれど、それは西洋中心にした1つの物差しでみた価値観なのではないか。

当たり前と思いがちなことを当たり前にせず、本当に当事者が、そしてその社会・コミュニティが必要なことを理解して、彼女がそれらを得られるように手助けをしたい。


こんなことを考えながら、あと数時間でジャカルタに降り立つわけだが、空港にもホストシスターが迎えに来てくれるというし、フィールドワークに際しても現地のアシスタントが同行してくれるし、手助けをするどころか助けを十分過ぎるくらい受けて今回の滞在が成立している。

今回受ける恩を返せるような研究にしなければ。と、機内でもらったKOMPAS(インドネシアの全国紙)から単語をひろいながら、読み進める。



2014年11月28日金曜日

助けてもらうこと




新しい土地名古屋での生活を始めてからもう1年がたつ。

それ以前の数年間は外国へ行っては日本に帰って来て、数ヶ月滞在してはまた別のところへ行く、という生活をしていたので、こうやって自分の「ホーム」みたいな場所ができることは新鮮で、嬉しい。

18年間関西を出たことがなかった私が、東京で一人暮らしを始め、オランダで1年弱勉強し、こうして今は名古屋にいる。

信頼のおける友達や知り合いがいて、お気に入りの場所がある、そんな「ホーム」が増えていくのが嬉しいし、自分は恵まれているなあと実感する。

特に、子供がいると「ホーム」をつくることは大事になるのかもしれない。

名古屋での生活を始めた時は、知り合いも友達もおらず、いざという時に頼れる人がいなかった。

今では、友達、クラスメイト、一緒に住んでいる人たち、ご近所ママさんなど、いざという時に助けてくれそうな人に囲まれている。この安心感は私たちにとって大きなものだと思う。

土日の研究会で娘を連れて行けない時にベビーシットしてくれる友人も。

私も娘も風邪でダウンしていた時に電話をかけたら駆けつけてくれる友人も。



今、大学で共同研究のプロジェクトを進めている。メンバーはウズベキスタン人、台湾人、中国人、バングラデシュ人、そして私を含め日本人が2人。
以前、研究発表の都合で急遽、土曜日にミーティングを入れなければならないことになった。しかもそれが決まったのは金曜日。

もともと土日は基本的に娘との時間と決めていることもあり、娘を連れてミーティングに行くことに決めた。もちろん、メンバーの許可をとって。

すると、面白いことがおこった。

ミーティングをしている間、いつの間にかみんなが代わる代わる娘の面倒をみてくれているのだ。

私がディスカッションをリードしている時は、それを聞きながら娘をだっこしてくれている人がいる。

私が議論に夢中になっている時は、娘が椅子から落ちないか気を配ってくれている人がいる。

挙げ句の果てには、通りかかった研究チーム外の友達が、娘をみて「遊んで来て良い?」と言って娘を連れ出してくれた。

30分くらいだっただろうか。ミーティングも大詰めで、みんなも疲れて来ているときだったので、本当に助かった。

それまで娘と何度も会っている人たちだからか、娘もいやがることなく代わる代わる抱かれていた。

もちろん、こんな風にうまくいかない場面の方が多いだろうから、場面、その仕事の重大さ、周りの人たちとの関係、娘のこと、いろいろなことを考慮して決めなければいけないことだと思う。

でもこうやっていざというときに助けてくれる友達ができたのはとても貴重なことだし、そういう関係を築けたという事実が自信にも繋がった。



「助けて」と言うことは、自分ができることとできないことを明確に理解し、さらに他人を信用して仕事を委ねることができることに等しい、と思う。

私は、基本的に人に助けてというのが苦手だ。

1つには、その人に割いてもらう労力、時間に値するほどの価値のあるものなのか、と考えてしまうこと。例えば、悩んでいることがあってもなかなか他人に相談する、ということに踏み出せないのはこの理由がある。

2つ目は、自分は一人でできる、と信じたいから。自分にはそれだけの力があると信じたいからだと思う。

でも、一人でできることなんてしれているのかもしれない。

自分でベストを尽くして、できるところまでやってみて、それでもだめなら助けを求めてもいいじゃないか。

そうして助けてもらった分は、いつか返せばいい。

その助けてくれた本人に返せなくても、自分の周りの人に、自分ができるときにできることで返していけばいい。

最近亡くなった私の祖父は、よく「人生は借りを返すために生きていくようなもんだ」と言っていた。情にあつく、人間関係を一番に大事にする人だった。それで若い頃に始めた小さな薬局を大きくし、成功を納め、今ではその薬局は大きな組織になり私の母を含めた祖父の子供たちに受け継がれている。



テニスも、ダブルスよりシングルスの方が好きだった。

今でも何においても個人プレー派だけれど、子供が産まれたことで「助けて」と言わなければならない状況におかれることも増えた。

自分のバウンダリーを広げて、少しづつチームプレーも学ぶ時なのかもしれない。