2014年12月31日水曜日

2014年の振り返りと2015年の抱負。


Pelabuhanratu(女王の海)のビーチでの夕日。



インドネシアの交通渋滞は、自他ともに認める社会問題である。


人々は、常に渋滞状況を考慮に入れて行動しなければならないし、渋滞のせいで遅刻なんて日常茶飯事(もはや本当に渋滞のせいなのか、渋滞が言い訳に使われているのかわからない)、ジャカルタの人が早起きなのも渋滞を避けるためだそうだ。

でも、実は私は渋滞が嫌いじゃない。

というのも、渋滞に巻き込まれた交通機関の中では、「考える」こと以外にできることがないから。

乗り物酔いをしない人は、ガタガタ揺れるバスの中だって本を読んだりできるのかもしれないが、三半規管が敏感な私では5分でダウンしてしまう。

だから、常に生産的なことをしていたい私も、この状況には逆らえない。じっとしてじっくり考え事ができる、かなり贅沢な時間なのだ。

最後のインタビューを終え、ガタガタ揺れるバスの中で7時間、年末にいつもしようと心がけている今年の振り返りと来年の目標設定をしていた。



今年は、試行錯誤の年だった。

は、親になると、1人から、ふたでひとりになる。

ひとりふたりになると、今までの自分のあり方を一度壊さなければいけなくなる。

自分のアイデンティティーを、一から作り直すような感覚だ。

特に子供が小さいうちは、どこにいくのも子供と一緒だし、一緒でない時も、人は子供と自身の2人を「セット」としてみる。

保育園にいくと先生達はみな「○○ちゃんのお母さん」と呼ぶし、大学に行くとまず「○○(娘の名前)元気?」と尋ねてくれる。

振る舞いも、頭の中も、計画だって、親になる前の「私」がしていたようでは通用しない。

今年は、そんな自分に戸惑いながら、失敗ながら学び、少しづつ土台のようなものを築きあげた年だった。

新しい土地で、一から人間関係と信頼を築いた年でもあった。

来年は、その築いた土台から、飛躍する年にしたい。

ということで今年の抱負。


1)アグレッシブにいく。
こんなことを抱負にあげると、「アグレッシブは十分だから、ちょっとは落ち着け。子供もいるんだし。」という声が聞こえてきそうだけど・・・
 子供がいることで、守りの態勢に入りがちだからこそ、あえて自分にこれを言い聞かせたいと思う。

2)自分に正直になって、自分を理解する。
最近になって、自分のことを理解することが、選択だらけの人生において自分の道を歩むために大切で、同時に難しいことであることにも気づいた。
自分のいる環境、周りにいる人に順応、適応する努力も必要だけど、嫌いなものは嫌い、違和感は違和感、と自分に正直になることは自分を理解するために必要なことだと思う。

3)他人にポシティブフィードバックをする。
私は他人を理解するのが好きで、努力しなくてもポジティブな面と、同時にネガティブな面が見えてしまうことが多い。今年はこの能力をうまく使いたい。
ポジティブなことは、照れずに意識的に相手に伝える。
ネガティブなことは、必要なときは相手にとって効果的な言い方を考えて伝える。

4)生活はシンプルに。
優先順位の低いものはできるだけシンプルにしてルーティーン化する。
そうすることで優先順位の高い大切なことに集中できる。



また半年先にどこにいるかわからないような生活をしていますが、離れていても、どこにいても、自分にとって大切な人を大切にできるようにしたいと思っています。2015年もよろしくお願いします。

2014年12月19日金曜日

変わることと進むこと


5年ぶりのインドネシアに向かう飛行機でこれを書いている。

関空で搭乗時間ギリギリまで母と他愛ない話をし、駆け足でゲートに向かいながら、胸の中に小さな不安を感じた。

この不安のはっきりした理由はわからないが、5年ぶりに同じ土地に舞い戻るということは5年前の自分と今の自分との違いを直視しなければいけないということであり、そして自分でそれを知る良い機会であるように感じた。

5年前、初めての海外長期滞在の地として降り立ったジャカルタは、無垢だった私にとって新鮮でこの上なく刺激的だった。

英語は日常会話レベルも怪しかったので、電子辞書を持ち歩き、それを使いながらなんとか同僚たちと会話した。

ホストファミリーとの食事では、英語が堪能なホストブラザーたちが発する英語のジョークがわからずに、申し訳ない気持ちになった。

語学もままならず、スキルも知識もなかった大学1年生の私は、それでも自分にできることは何かを必死に考え、日本の四大公害病である水俣病のポスターをまるめて持って行った。そして、水俣病を通して環境啓発をしようと水俣展を企画した。

そういえば、そのとき、自分にもっとスキルがあれば、もっと知識があれば、専門があれば、人に助けてもらうだけじゃなくて人に役立つことができるのに、と思ったのが、それから学問を続け、留学もした理由だった。

そして今気がつけば、研究者としての道を選びインドネシア法を専門にしようとしている。

研究者として、どうしたら社会に貢献できる研究ができるのか。

これはマスターコースに入ってからずっと問い続けてきた問いである。

私は研究という行為が好きだと思う。

机に座って、本を読み、頭で考え、書くことが好きだし、自分のやりたいことを、価値があると思うことを自分の裁量でできるところが自分に合っていると思う。

ただ最近、研究者でいるだけでは物足りない、と感じている。

教授方にはまだ研究者として一人前でもないのに生意気な、と言われるかもしれないが、研究をしているだけでは満足できない。

私は自分の研究を活かして、直接的な支援がしたい。

国際社会は当たり前のように、「child marriageは撲滅すべきだ」というけれど、それは西洋中心にした1つの物差しでみた価値観なのではないか。

当たり前と思いがちなことを当たり前にせず、本当に当事者が、そしてその社会・コミュニティが必要なことを理解して、彼女がそれらを得られるように手助けをしたい。


こんなことを考えながら、あと数時間でジャカルタに降り立つわけだが、空港にもホストシスターが迎えに来てくれるというし、フィールドワークに際しても現地のアシスタントが同行してくれるし、手助けをするどころか助けを十分過ぎるくらい受けて今回の滞在が成立している。

今回受ける恩を返せるような研究にしなければ。と、機内でもらったKOMPAS(インドネシアの全国紙)から単語をひろいながら、読み進める。



2014年11月28日金曜日

助けてもらうこと




新しい土地名古屋での生活を始めてからもう1年がたつ。

それ以前の数年間は外国へ行っては日本に帰って来て、数ヶ月滞在してはまた別のところへ行く、という生活をしていたので、こうやって自分の「ホーム」みたいな場所ができることは新鮮で、嬉しい。

18年間関西を出たことがなかった私が、東京で一人暮らしを始め、オランダで1年弱勉強し、こうして今は名古屋にいる。

信頼のおける友達や知り合いがいて、お気に入りの場所がある、そんな「ホーム」が増えていくのが嬉しいし、自分は恵まれているなあと実感する。

特に、子供がいると「ホーム」をつくることは大事になるのかもしれない。

名古屋での生活を始めた時は、知り合いも友達もおらず、いざという時に頼れる人がいなかった。

今では、友達、クラスメイト、一緒に住んでいる人たち、ご近所ママさんなど、いざという時に助けてくれそうな人に囲まれている。この安心感は私たちにとって大きなものだと思う。

土日の研究会で娘を連れて行けない時にベビーシットしてくれる友人も。

私も娘も風邪でダウンしていた時に電話をかけたら駆けつけてくれる友人も。



今、大学で共同研究のプロジェクトを進めている。メンバーはウズベキスタン人、台湾人、中国人、バングラデシュ人、そして私を含め日本人が2人。
以前、研究発表の都合で急遽、土曜日にミーティングを入れなければならないことになった。しかもそれが決まったのは金曜日。

もともと土日は基本的に娘との時間と決めていることもあり、娘を連れてミーティングに行くことに決めた。もちろん、メンバーの許可をとって。

すると、面白いことがおこった。

ミーティングをしている間、いつの間にかみんなが代わる代わる娘の面倒をみてくれているのだ。

私がディスカッションをリードしている時は、それを聞きながら娘をだっこしてくれている人がいる。

私が議論に夢中になっている時は、娘が椅子から落ちないか気を配ってくれている人がいる。

挙げ句の果てには、通りかかった研究チーム外の友達が、娘をみて「遊んで来て良い?」と言って娘を連れ出してくれた。

30分くらいだっただろうか。ミーティングも大詰めで、みんなも疲れて来ているときだったので、本当に助かった。

それまで娘と何度も会っている人たちだからか、娘もいやがることなく代わる代わる抱かれていた。

もちろん、こんな風にうまくいかない場面の方が多いだろうから、場面、その仕事の重大さ、周りの人たちとの関係、娘のこと、いろいろなことを考慮して決めなければいけないことだと思う。

でもこうやっていざというときに助けてくれる友達ができたのはとても貴重なことだし、そういう関係を築けたという事実が自信にも繋がった。



「助けて」と言うことは、自分ができることとできないことを明確に理解し、さらに他人を信用して仕事を委ねることができることに等しい、と思う。

私は、基本的に人に助けてというのが苦手だ。

1つには、その人に割いてもらう労力、時間に値するほどの価値のあるものなのか、と考えてしまうこと。例えば、悩んでいることがあってもなかなか他人に相談する、ということに踏み出せないのはこの理由がある。

2つ目は、自分は一人でできる、と信じたいから。自分にはそれだけの力があると信じたいからだと思う。

でも、一人でできることなんてしれているのかもしれない。

自分でベストを尽くして、できるところまでやってみて、それでもだめなら助けを求めてもいいじゃないか。

そうして助けてもらった分は、いつか返せばいい。

その助けてくれた本人に返せなくても、自分の周りの人に、自分ができるときにできることで返していけばいい。

最近亡くなった私の祖父は、よく「人生は借りを返すために生きていくようなもんだ」と言っていた。情にあつく、人間関係を一番に大事にする人だった。それで若い頃に始めた小さな薬局を大きくし、成功を納め、今ではその薬局は大きな組織になり私の母を含めた祖父の子供たちに受け継がれている。



テニスも、ダブルスよりシングルスの方が好きだった。

今でも何においても個人プレー派だけれど、子供が産まれたことで「助けて」と言わなければならない状況におかれることも増えた。

自分のバウンダリーを広げて、少しづつチームプレーも学ぶ時なのかもしれない。

2014年9月28日日曜日

違いと、多様性と、寛容性

ライデンでの研究が終わった。

怒濤の5週間だった。

どうやってこの5週間を最大限に活用しようか、と常に自分に問いかけながらの滞在だった。

この滞在で、他の国でも娘と研究を両立できるという自信がついたし、それにやっぱりライデンで研究したいという気持ちが確信になった。

研究のためのベストの環境だというのがひとつ。

もうひとつは、ライデンというか、オランダというか、ヨーロッパというか、の居心地の良さだと思う。

私は生粋の日本人だし、私の国はなんだかんだいって日本だと思っているし、私の故郷は家族のいる、そして私が18年間過ごした関西だ。

毎回海外から帰る旅に日本食とお風呂の素晴らしさに感動するし、日本が嫌いなわけでは全くない。

ただ、なんだか居心地の悪さを感じることがある。

それは日本にいる時に感じるのではなくって、外に出た時に、「ああ、私は今まで何かに縛られていたんだな」という「開放感」を感じることがある。

その理由を考えているうちに、日本社会のもつ「スタンダード」にそぐわなくてはならないというプレッシャーに気づいた。

特に私のように日本では「マイノリティ」なステータスや性格(というか態度、行動?)を持っていると、その社会的プレッシャーは 自分でも知らないうちに負担になっているんだなあと気づかされる。

その点、オランダでは多様性、違いを尊重する文化がある。

だから、私の変わったプロフィールでも、その枠でではなく、私を個人としてみてもらえているような気がした。

研究の現場では、私が若いとか、女だとか、母親だとか、関係なく、私が考えていること、やっていること、やりたいこと、そういったものだけをベースに純粋に評価してもらえた。

これが国民性の違いだとかいう一般化はしたくないし、もちろんこれは私が感じていることだから他の要因も関係しているのだと思う。


けど、日本は、日本人は、一度、「違い、多様性に対する寛容性」について考える価値はあると思う。

前にお世話になっている年上のオランダ人の人に「日本に必要なものは何だと思う?」と聞かれた時に、「diversity(多様性)」だと即答していた私を思い出す。

違いを認めるのは規模や程度の大きさに関らず、容易なことではない。

この世界には、それ(違いをただ違いとして認めること)ができれば解決される紛争や問題がたくさんあるような気がする。

私だって完璧にできているわけじゃない。

娘の育て方の方針とかいったことで、娘のフランスの家族と意見が違うことだって多い。(この前も、寝かしつけ方のことで口論になった)

クラスメイト(私のプログラムは半分以上が外国人だ)や共同研究者(オランダ人)と一緒に研究していると、違いに直面せざるをえない場面も多い。(ミーティングの仕方から、ものの言い方まで・・・)

でも、違いの認め方なんていうのは、こういう小さいこと、日常でおこることからクリアして、 学んでいけるものなんじゃないかと思っている。

2014年8月21日木曜日

オランダと娘と研究と

オランダに来ています。(写真は名古屋)

私はインドネシアの法律に関する研究をしていて、その研究のためにベストな場所は実はオランダのライデンというところなのです。

計5週間滞在する中の、今ちょうど半分過ぎたところ。

娘は、数日前からこちらのインターナショナル保育園(いろんな国籍の子がいて、先生も英語とオランダ語をしゃべるということでインターナショナルとついているらしい)に行き始め

なんとか毎日保育園での時間を過ごしているものの(先生によると、めっちゃいい子にしているらしい)

毎朝保育園に送り、私が出て行こうとすると大泣きする。

ママーと言いながらしがみついてくる娘を先生に預け、泣いてるところを見ながら

「本当はママも○○(娘の名前)と一緒にいたいんだけどね、ママお仕事なの。また夕方に迎えに来るからね。」

と言いながら保育園を出る。

気になって少し後で娘に気づかれないように見にいくと、けろっと先生に抱かれておとなしくしていることが多いのだけれど。



保育園で朝泣くのは普通のことだし、この環境にもすぐに慣れるだろうし、結果的には娘に良い経験・影響になることはわかってる。

でもやっぱり私自身がやりきれない時もある。

朝大泣きする娘をおいてオフィスに行くときは、

「娘との時間を犠牲にしてまでする価値のあることなのか」

なんて考えこんでしまう。




長時間保育園に預けている分、一緒にいる時間は思う存分甘えさせてあげようと思っている。

毎日、 夕食後には半時間くらい散歩にでかける。

最近は歩けるようになったので、私がだっこしようとしても「一人で歩ける!」とばかりにいやがって一人で歩いていったり。

こっちに行こう、とリードして手をつないでも「あっち!!!」と言って自分の行きたい方向へ歩いて行ったり。

ああ、こうやってだんだんと自立して、だんだんと私から離れていくんだな、こういうのを成長というんだな、と思う。

甘えさせてあげている、と言ったけれど、甘えさせてもらっているのは私の方なのかもしれない。

気づいたら、日中の研究のモチベーションは夕方の散歩になっているし。



私の大好きな人が、この言葉が好きなんだといって教えてくれた言葉がある。

師匠が悩んで相談をもちかけてきた弟子に対して言った

「悩んでいる暇があったら勉強しろ!」



「娘との時間を犠牲にしてまでする価値のあることなのか」

毎朝悩むくらいなら、その時間を今しかできないことに使おう。

「娘との時間を犠牲にしてまで価値のあることにする」ために研究するんだ。

オランダ滞在は残り半分。Let's make the best out of it.

2014年7月19日土曜日

私がブログをかく理由




最近、執筆が不調である。

書きたいことはあって、書き始めるのだが、いつも言いたい事の3分の2くらいを言った段階で筆が止まってしまう。

そうやって執筆が完成していない記事が2−3個ある。



先日、初めて会った人に目の前でブログを見つけられてしまうということがあった。

とっさに「今読まないで!読むなら私がどこかに言ってから読んでください。」と言ったのだが、すると

「インターネットという公の場で、不特定多数の人に公開しているブログなのに、(今知り合ったといっても)知り合いである僕には見せられないの?strange.」と言われてしまった。

たしかに。と思ってまず自分がなぜブログを書いているのか考えてみた。

ブログを書くという行為は、私は二つの意味で有益なことだと思っている。

1)後から振り返った時に、その時々の自分の考え、そしてその移り変わりがわかる。自分の思考の変化の証とでもいうか。

2)書く事で、自分の思考の整理、明確化に繋がる。

この2つの中でも、2)は特に私にとって大事で。

というのも、私は自分の感情に気づくのがあまり得意な方ではなく、大抵の場合、自分の行動から思考回路を分析して、その行動や思考から自分の感情をまず推測しなければ自分の感情に気づけないのだ。

例えば、「疲れたなあ」という感情に直接気づけることはあまりなく、「最近ちょっとしたことでイライラするなあ」という「行動」を分析した結果「疲れているのかもしれない」と仮定し、自分の身体を労ってあげると、結果その「ちょっとしたことでイライラ」が解消され、「ああ、やっぱり疲れていたんだなあ」となる。

これはシンプルな例だが、他のもっと複雑な感情でもこういう分析が効果的なことがよくある。

さて、話を戻すと、だから自分の思考を文章にして、整理をして、公開するということは私にとっては結構大事な行為で、だからこそ忙しい時でも時間をとるようにしている。

みなさんも、他の人に話を聞いてもらっている過程で、初めて自分の感情や思考に気づいたという経験があると思う。

それは他人に話すというある程度強制される形で、自分の感情や思考を引っ張りだしてくる必要があるからだと思っている。

私がブログを書くのは、そういう「思考の引っ張りだし」をブログという形でやっているからだと言えるかもしれない。


私の好きなフレーズの1つに、ガンジーのものがある。

"Happiness is when what you think, what you say, and what you do are in harmony." - Gandhi」(幸せとは、考えていること、言っていること、そしてしていることが調和している状態である。)

だから、どんな形であれ、「思考の引っ張りだし」をして、自分の人生を自分で決めて自分の足で歩んでいくためには大切なことだと思う。そしてそれが人間の幸せに深く関るものなんだと思う。

それを他人に話すという行為でできる人もいるだろうし、一人で散歩に出るという行為でできる人も、日記をつけるという行為でする人もいるだろう。



さて、では何で今執筆が不調なのか?

もちろん時間がないとか、そういった物理的要因もなきにしもあらずだと思うが、それを別にして、私が「迷っている」からであり、その迷っていることを認められるようになったからかもしれない。

一応、ブログの記事にはひとつひとつメッセージを持たせているつもりで、執筆する時、特に執筆後半になるとそのメッセージをある程度「決める」必要がある。

最近はいつもそこで筆をおいてしまうのだ。

以前までは、強烈にどうしても伝えたいことがある場合以外は、迷っていてもメッセージを「えいっ」と決めて書いていた気がする。

それが私の考えであって、私の考えというのは1つ持っておく必要があると思っていたから。

でも、今はその決断を焦るよりも、一度距離をおいて時間をかけて決めてみようという姿勢に変わった気がするのだ。

迷っていてもいいじゃないか、焦らなくても、時がくれば決められる時がくる。そんな気持ちになれている。


子曰、吾十有五而志乎(干)学、
三十而立、四十而不惑、
五十而知天命、六十而耳順、
七十而従心所欲、不踰矩。


(読み)子曰わく、吾十有五にして学に志す、
三十にして立つ、四十にして惑わず、
五十にして天命を知る、六十にして耳順がう、
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。


(訳)先生が言われた。「私は十五歳で学問に志し、
三十になって独立した立場を持って、四十になってあれこれ迷わず、
五十になって天命をわきまえ、六十になって人のことばが素直に聞かれ、
七十になると思うままに振舞ってそれでも道を外れないようになった。」
 


言わずと知れた論語の一部分である。

「四十になってあれこれ迷わず」という部分が、私は好きだ。

孔子でも、40歳になって初めて「迷わない」という段階に達したのだ。

今の私は迷うことだらけだが、ああ、それであたりまえなんだ。と思えた。

むしろ今迷うべきなのかもしれない。



と、こんなメッセージで、やっと1つ記事を完成させられた気がする。

あとの未完成のものも、完成して公開するかもしれないし、しないかもしれない。

でもそれは、Que sera seraケセラセラ)。

2014年4月7日月曜日

子供ができると変わること

フィリピンでの1ヶ月は、マネジメントやソーシャルビジネスの運営などでも学ぶことが多かったが、娘と離れて過ごした1ヶ月という意味でも気づくことが多かった。

もうすぐ一歳という繊細な時期に母親と1ヶ月離れる娘への影響ももちろんだが、出産してからほとんどずっと傍にいた娘と1ヶ月も会わないことは、私にとってもどんな影響を与えるか予測できなかった。

しかも、1ヶ月フランスにやることは、最終的には私自身が決めたこと。決定権は私にあった。

その決断をするのには何ヶ月か悩んだ。

経験者に意見を聞いたり、試しに1週間程離れて暮らしてみたり。

最終的にその決断を下した理由は、

1. フランスの家族が娘を愛してくれているから。彼らにも娘との時間をあげたいと思ったし、愛情を注いでくれる人がたくさんいる環境にいることは娘にも良いことだと思った。

2. これからも私と離れてフランスで過ごしたり、長期間どこかで預かってもらうことがあるかもしれないと思ったから。どこかの段階で慣れることが必要だと考えた。1歳という時期がそれに適切がどうかについては確信が持てなかったけれど。



その結果はというと、やはり、というか、最初の1−2週間は私にとって辛かった。

これでよかったのか、娘をフランスに飛んで娘を迎えに行こうかと考えたこともあった。娘と過ごす時間は何にも代え難いのに、私はフィリピンで何をしているんだろうと自分が情けなくなることもあった。

でも、そうやって不安がっていたのは、私だけだったのかもしれない。

というのも、私のその不安な気持ちをなだめてくれたのは、幸せそうな娘の姿を見たからだった。

ここに載せるのは控えるが、フランスの家族が送ってくれた写真がある。

フランスの(娘の)おじいちゃんが、娘をお風呂に入れている写真だったのだが、見つめ合っている二人の笑顔が素敵で、とっても幸せそうで、なんだか泣けた。

やはり私の判断は正しかった、と思えた。


帰って来た時に泣かれたりしたらどうしようなんて思っていたけど、娘は私を見てにっこり笑い、だっこを求めてきた。

私は1ヶ月ぶりのだっこで、彼女の重みに心地よさと安心を覚えた。

前と比べたらちょっとママに甘えん坊でわがままになった気もするが、それも成長の一部なんだろうと思う。




娘との関係性における自分自身について気づいたこともある。

娘といる時の自分と、そうでない時の自分では、やはり大きな違いがあること。

一番大きな違いは、自分自身について考える時間と余裕があること。日記をつけたり、自分自身を分析したりする時間は、意外に大切で、意外に意識しないと持てない時間だった。

2つ目は、助けられる立場から助けることができる立場になったこと。ソーシャルビジネスとして、途上国で、自分の得意なマネジメントをやっていたという環境要因ももちろんあるけれど、他の人に頼らざるを得ず周りからのサポートに感謝するばかりの状況と、自分が他人に手を差し伸べていける状況の差は、人の役に立つことが生き甲斐の私にとってはかなり大きい。 
3つ目は、自由。以前の記事でも書いたと思うが、子供との生活というのは重たい荷物を持って走るようなものだ。フィリピンでは、夜ちょっと外出するのも、どこで誰と何をするのも自分の自由にできた。ただ、その自由は、あれば堪能するけれど、今の私にとって特にほしいものでも必要なものでもないことにも気づいた。

4つ目は、他の人への気遣いや思いやりに割く時間と余裕がぐっと増えること。子供ができてからずっと意識していたことだった。娘と一緒にいると、80%はそちらに意識がいっている。友達と話していても、100%聞いて、考えて、答えているとは到底言えなかった。そんな自分をもどかしく、不満に思っていた部分があった。



2つ目3つ目は別にして、どうすれば1つ目と4つ目を、娘と一緒にいる時にもできるようにするか、を考えていたのだけれど。

最近、同年代の友達と話していて、娘ができてから自分を含め彼女以外の人のことを気にかけたり思いやったりすることが難しくなった、ということを相談したら、

「でもそれって当たり前じゃない?子供の存在ってこんなにおっきくて、子供を育てるってすごいことで、最初の数年は他の人の存在が薄くなるのは、当たり前のことだよ。」

はっとして、常に今の自分を出産前の自分と比べている自分に気がついた。

出産しても、子供がいても、自分のやりたいことはできる。「母親」だけじゃなくて、一人の「女性」としていられる。妥協しなくて良い。出産前の自分と変わらない。出産前の自分に負けたくない。

そんな気持ちでいたかもしれない。

子供という、かけがえのない存在を得た分、もちろん失うものだってあること、認めてあげられていなかったかもしれない。




子育ては、自分育てである。

フランスの哲学者クリステヴァは、母性愛は、女性(のみならず男性も)が性的欲望から自己愛段階へ、そして社会的な愛へと脱皮していくというプロセスをたどらせる必然性を有していて、その意味で「最高に自己を高める方法」であると言っている。

十数年の子育てのプロセスの中で、親は成長し、最初は自分一人で精一杯だった度量みたいなものも、だんだんと大きくなってゆく。それと同時に、子供も手がかからなくなっていく。

今は、目の前のことを必死にやって、あとはそういった自然のプロセスに身を任せてみてもいいんじゃないか、今の自分も許してあげてもいいんじゃないか。

と思い、今日も娘のためにご飯をつくる。最近は自己主張もはっきりしてきて、要らないものは要らない、ほしいものはほしいと全身で主張する。

自分のためのご飯をつくるのは別に好きでないけれど、娘が食べやすいようにと、野菜を小さく切って料理するのは、私のお気に入りの時間の1つである。