数年前、ミャンマーでインターンシップをしていた頃の経験を基に書いた記事がある。
「政府の目はどこにある?」
検閲から解放されたはずのミャンマー市民が、いかにその影から逃げられずにいるかという話。
「検閲」というものが物理的になくなっていたとしても、長年縛られてきたものを心理的に拭い去るには時間と度胸が必要なのだ。
日本社会はずっと、「ガラスの天井」があると言われてきた。
※「ガラスの天井」=(glass
ceiling)
組織内で昇進に値する人材が、性別や人種などを理由に低い地位に甘んじることを強いられている不当な状態を、キャリアアップを阻む“見えない天井”になぞらえた比喩表現。
この言葉は特に女性の社会進出、昇進の厳しさを表す言葉として使われてきた。
実際にガラスの天井があって、上にいこうとする意欲のある女性が頭打ちになった時代もあったんだと思う。今でも、実際にそれが現実であるコミュニティーや会社、社会もあると思う。
でも、今の日本では、世界では、ガラスの天井はだんだんと破られてきているのではないか。
実際に、未だにガラスの天井があるのはどれくらいのコミュニティーなのだろう。
ガラスの天井という「ガラスの」と言われるのは、それが見えないことの比喩表現である。
見えないのなら、どうして、そこにまだあるのかないのかわかるのだろう。
私たちの先人がその「見えない」天井に頭打ちになっているのをみて、私たちは自身の頭の中に別の「見えない」天井を作ったのではないか。
本当にそのガラスの天井が今でも存在するとしたら、それは誰が確認したのだろう?
存在の是非を確認するには、誰かが頭を打つ覚悟で上に行く他にないのではないだろうか?
もしかしたら、そのままひょいっと、上にいけてしまうのかもしれない。
そしたらそれを見ていた他の女性も、きっと上に行ってみようという気になるのだろう。
実際に「confidence gap」という研究結果がある。
http://www.theatlantic.com/features/archive/2014/04/the-confidence-gap/359815/
(英語記事。長いです)
一部抜粋
"A review of personnel records found that women working at HP applied for a promotion only when they believed they met 100 percent of the qualifications listed for the job. Men were happy to apply when they thought they could meet 60 percent of the job requirements. "
訳
「HP(ヒューレット・パッカード)社員の個人データの集積によると、女性社員はあるポジションが求める要件の100%を満たしていると確信した時にしか昇進願いを出さないことがわかった。それに対して男性社員は、要件の60%を満たしていれば意気揚々と昇進願いを出したという。」
つまり、能力のあるなし、結果がどうなるかに関わらず、女性は男性に比べてまずトライをする自信が少ないのである。それは、彼女たちの頭の中には見えない天井があるからなのではないだろうか。
今、私自身が日本社会で若い母親として過ごして感じるのは、ここではガラスの天井どころか「ガラスの箱」の中に閉じ込められている(と感じている)女性・母親が多いということ。
誰かがひょいっとでてしまえば他の人ももう少し自由になれるものを、画一的な社会や生き方がよしとされる日本社会ではなかなか、出る杭になって出て行こうとする人も少ない。
「母親なんだから」「女なんだから」「もう歳なんだから」
そんなガラスの壁たちを自分の周りに張り巡らせているのは、社会でもなく、男性でもなく、彼女たち自身なのではないだろうか。
と言っているのは、私自身がつい最近、自分で作っていたガラスの壁に気づいたからでもある。
私は名声とか地位とかは気にしない方なので、上に行きたい、(だから天井が気になる)というよりは、自分たちの(私と、娘の)世界を広げたい(だから壁が気になる)という欲望がある。
母親になっても、何歳になっても、その欲望は志として持っておきたいな、と思っていた。というのも、娘にも大きなスケールで世界をみていてほしかったから。
だから、娘ができてからも、妊娠中はミャンマーやアメリカに行き、名古屋で勉強しながら、夏はヨーロッパで過ごし、研究もオランダやインドネシアと名古屋を行き来しながら、機会があればフィリピンでインターンシップをしたり、東京に出かけたりと、他の母親や学生に言わせると「クレイジー」なくらい飛び回っていた。
そうしているうちに、名古屋での修士課程も終わる。論文を書きながら、その後のこともいろいろ考える。
博士課程に進むにしても、名古屋にいる必要はないという太っ腹なプログラムと、理解のある指導教官に恵まれているため、どこに住んで何をするかという選択肢は無限にある。
フランス、オランダ、インドネシア、アメリカ、イギリス、東京・・・。
その時、私は、いろいろな条件(保育園とか、金銭面とか)を考えた上での「できること」から「可能な選択肢」を見出し、そこからどの選択肢にしようかという方法で決めていたのだ。
私が勝手に持っている持論の中の1つに、「誰と過ごしたいか」(who)がわかっていれば、「どうやって」(how)は自然とついてくる、というのがある。だから例えば、遠距離恋愛だってへっちゃらだと思っている。
それならやりたいことだって一緒なはずじゃないか。なぜ、(自分のため、娘のため含めて)「やりたいこと」(what)から「どうすればそれができるか」(how))を考えていないのか。
それを気づかせてくれたのは、パートナーだった。
「でも、この選択肢だと保育園がどうなるかわかんないし」「名古屋でいれば安心安泰だし楽しくやれるし」
などと言っている私に喝を入れてくれ、「娘にとっていい道と、自分のキャリアと幸せにとっていい道」を両立できる「やりたいこと」を考えることからまずはじめて、そこから「それをするにはどうすればいいか」を考えることを思い出させてくれたのは彼だった。
「やりたいこと」から考えた結果がどうなるかはまだわからない。けど、少なくとも今の私の周りには、もうガラスの壁はないし、私がそのガラスの壁を突っ切っていく(実際にないんだから、「突っ切る」とも言わない?)ことで、同じような壁をみていた他の人にも、「勇気を与えられるような存在」になれればいいなと思う。
そして、こうやって「型」をやぶっていく女性、母親は、絶対に私だけじゃないから、そういう人たちに目を向けて、どんどん自分の頭の中の壁を壊していけばいいと思う。
そして、そんな型破りな人たちは、マイノリティーになることや、一部からの反発を恐れずに、どんどん発信していってほしいと思う。
組織内で昇進に値する人材が、性別や人種などを理由に低い地位に甘んじることを強いられている不当な状態を、キャリアアップを阻む“見えない天井”になぞらえた比喩表現。
この言葉は特に女性の社会進出、昇進の厳しさを表す言葉として使われてきた。
実際にガラスの天井があって、上にいこうとする意欲のある女性が頭打ちになった時代もあったんだと思う。今でも、実際にそれが現実であるコミュニティーや会社、社会もあると思う。
でも、今の日本では、世界では、ガラスの天井はだんだんと破られてきているのではないか。
実際に、未だにガラスの天井があるのはどれくらいのコミュニティーなのだろう。
ガラスの天井という「ガラスの」と言われるのは、それが見えないことの比喩表現である。
見えないのなら、どうして、そこにまだあるのかないのかわかるのだろう。
私たちの先人がその「見えない」天井に頭打ちになっているのをみて、私たちは自身の頭の中に別の「見えない」天井を作ったのではないか。
本当にそのガラスの天井が今でも存在するとしたら、それは誰が確認したのだろう?
存在の是非を確認するには、誰かが頭を打つ覚悟で上に行く他にないのではないだろうか?
もしかしたら、そのままひょいっと、上にいけてしまうのかもしれない。
そしたらそれを見ていた他の女性も、きっと上に行ってみようという気になるのだろう。
実際に「confidence gap」という研究結果がある。
http://www.theatlantic.com/features/archive/2014/04/the-confidence-gap/359815/
(英語記事。長いです)
一部抜粋
"A review of personnel records found that women working at HP applied for a promotion only when they believed they met 100 percent of the qualifications listed for the job. Men were happy to apply when they thought they could meet 60 percent of the job requirements. "
訳
「HP(ヒューレット・パッカード)社員の個人データの集積によると、女性社員はあるポジションが求める要件の100%を満たしていると確信した時にしか昇進願いを出さないことがわかった。それに対して男性社員は、要件の60%を満たしていれば意気揚々と昇進願いを出したという。」
つまり、能力のあるなし、結果がどうなるかに関わらず、女性は男性に比べてまずトライをする自信が少ないのである。それは、彼女たちの頭の中には見えない天井があるからなのではないだろうか。
今、私自身が日本社会で若い母親として過ごして感じるのは、ここではガラスの天井どころか「ガラスの箱」の中に閉じ込められている(と感じている)女性・母親が多いということ。
誰かがひょいっとでてしまえば他の人ももう少し自由になれるものを、画一的な社会や生き方がよしとされる日本社会ではなかなか、出る杭になって出て行こうとする人も少ない。
「母親なんだから」「女なんだから」「もう歳なんだから」
そんなガラスの壁たちを自分の周りに張り巡らせているのは、社会でもなく、男性でもなく、彼女たち自身なのではないだろうか。
と言っているのは、私自身がつい最近、自分で作っていたガラスの壁に気づいたからでもある。
私は名声とか地位とかは気にしない方なので、上に行きたい、(だから天井が気になる)というよりは、自分たちの(私と、娘の)世界を広げたい(だから壁が気になる)という欲望がある。
母親になっても、何歳になっても、その欲望は志として持っておきたいな、と思っていた。というのも、娘にも大きなスケールで世界をみていてほしかったから。
だから、娘ができてからも、妊娠中はミャンマーやアメリカに行き、名古屋で勉強しながら、夏はヨーロッパで過ごし、研究もオランダやインドネシアと名古屋を行き来しながら、機会があればフィリピンでインターンシップをしたり、東京に出かけたりと、他の母親や学生に言わせると「クレイジー」なくらい飛び回っていた。
そうしているうちに、名古屋での修士課程も終わる。論文を書きながら、その後のこともいろいろ考える。
博士課程に進むにしても、名古屋にいる必要はないという太っ腹なプログラムと、理解のある指導教官に恵まれているため、どこに住んで何をするかという選択肢は無限にある。
フランス、オランダ、インドネシア、アメリカ、イギリス、東京・・・。
その時、私は、いろいろな条件(保育園とか、金銭面とか)を考えた上での「できること」から「可能な選択肢」を見出し、そこからどの選択肢にしようかという方法で決めていたのだ。
私が勝手に持っている持論の中の1つに、「誰と過ごしたいか」(who)がわかっていれば、「どうやって」(how)は自然とついてくる、というのがある。だから例えば、遠距離恋愛だってへっちゃらだと思っている。
それならやりたいことだって一緒なはずじゃないか。なぜ、(自分のため、娘のため含めて)「やりたいこと」(what)から「どうすればそれができるか」(how))を考えていないのか。
それを気づかせてくれたのは、パートナーだった。
「でも、この選択肢だと保育園がどうなるかわかんないし」「名古屋でいれば安心安泰だし楽しくやれるし」
などと言っている私に喝を入れてくれ、「娘にとっていい道と、自分のキャリアと幸せにとっていい道」を両立できる「やりたいこと」を考えることからまずはじめて、そこから「それをするにはどうすればいいか」を考えることを思い出させてくれたのは彼だった。
「やりたいこと」から考えた結果がどうなるかはまだわからない。けど、少なくとも今の私の周りには、もうガラスの壁はないし、私がそのガラスの壁を突っ切っていく(実際にないんだから、「突っ切る」とも言わない?)ことで、同じような壁をみていた他の人にも、「勇気を与えられるような存在」になれればいいなと思う。
そして、こうやって「型」をやぶっていく女性、母親は、絶対に私だけじゃないから、そういう人たちに目を向けて、どんどん自分の頭の中の壁を壊していけばいいと思う。
そして、そんな型破りな人たちは、マイノリティーになることや、一部からの反発を恐れずに、どんどん発信していってほしいと思う。
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