2013年5月22日水曜日

私が22歳で出産することを決めた理由

2013年4月18日、22歳の春に、私は母親になった。

その9ヶ月前に既に母親になっていたのかもしれない。その時に「母親になることを決めた」というべきか。

出産後、家族や友達と話をしていると「なぜ妊娠がわかった時に、出産することを決めたのか」という理由説明することが多い。

まず、この質問の裏には「なぜ中絶を選ばなかったのか」という問いがある。

もちろん中絶に伴う肉体的精神的苦痛がこわかった、というネガティブな理由も1つだ。

実際に、(中絶せずに)出産を決めた後で、確認のために産院で受けたエコーの写真に写った小さな黒い点(これが生命の始まりなのである)を見た瞬間、

「ああ、これは中絶すると決めていたとしてもできなかっただろうなあ」と思った。

しかし、出産を決めた本質的な理由は、若い歳での出産をポジティブにとらえる理由を見つけることができたことにある。

私は、自分のやりたいことを仕事として、趣味として、実現することに自分の人生の意味を見いだしていた。具体的には、発展途上国で現地の開発のための活動に携わること。そして国内国外を周りいろんな世界を見ること。

それに子供だって欲しかった。

この2つをどちらも実現したいと思う女性、いわゆる「キャリアウーマン」が選ぶ道は、大抵、若いうちは働き、遊び、それらにある程度満足がいったら結婚し、出産し、専業主婦(もしくはパートタイム)になり子育てをする、というものだろう。

しかし22歳で決断を迫られた私はその時、考えた。

子供をもつ、ということは一生のうち子供が自立するまでの少なくとも15年間はある程度の制約とともに生きていくということ。でも、それが今大半のキャリアウーマンが選んでいるように35歳からの15年間である必要があるのだろうか。どうせ子供を育てるなら、その15年間を22歳から37歳の間に費やすのが、なぜできないのか。

個人的には40歳からが女性にとっての最盛期だと思っているので、その最盛期も「自分だけのために」使うことができる。 私の場合は、その15年間を勉強や研究(実は会社で働いたりするよりも子育てとの両立がしやすい)に費やせば、その後の「実務」に活かすこともできる。





これが私が出産を決めた理由だったわけだが、出産からの15年間、母親に自由がないというイメージにも疑問がある。

妊娠中のこと。親戚が集まるお正月の場で、親戚の1人から「人生で一番遊びたい時期を子供のために捧げるのだから、頑張ってね。」と声をかけられた。

もちろん彼女は意地悪で言ったのではなく、母親として頑張ってほしいという応援の言葉として言ってくれたのだが、私はその時妙な違和感を感じたのを覚えている。

その後、妊娠後期(大学でのテストを終え、実家に戻って出産準備をしていた9、10ヶ月目)に読みあさっていた外国での妊娠出産や子育ての捉え方に関する本で、その違和感の正体がわかった。

子育てにおける母親の役割について、欧米の中でも特異な社会的概念が存在するフランスでは、「子の人生は一人の人間としての人生、母親の人生も一人の女性としての人生である」のが通念である。だから、女性は母親になった後も「女性」であることを当たり前としそれを主張する。

その考え方にしっくり来た私は、「子供に自分の人生を捧げる」という言葉に対して感じた違和感を思い出した。

総体論になって申し訳ないが、現在の日本社会では「母親が自分を犠牲にして子供の世話をする」ことで「子供に人生を捧げる」ことが美徳とされているように感じられる。

しかし、本当に母親が自分を犠牲にすることが子供を幸せにすることに繋がるのだろうか。

こんな話がある。

ある女性は、女医として働くまさに「キャリアウーマン」だった。そんな彼女が中年になり、出産した時に彼女は仕事をやめ、専業主婦として子育てに専念することに決めた。それは彼女の母親が彼女にしてくれたこと(彼女の母親は専業主婦であった)を自分の子供にもしてあげたいと考えたからであった。そして、医者という仕事をやめて母親という仕事に「転職」した瞬間、彼女は皆から尊敬され羨ましがられる「キャリアウーマン」から「どこにでもいる子連れの主婦」になり誰からも評価されなくなってしまったのだ。そんな彼女のストレス発散方法は、週一回子供を連れてカラオケにいくこと。

決断は各人の自由だが、なんだか彼女の才能が勿体ないような気がしてならない。

さらに彼女は自分が周りから評価されなくなった分、自分の娘に期待をかけるようになった。子供に対する評価=自分の母親業に対する評価、になってしまい、結果子供に悪いプレッシャーを与えることになっている。彼女の娘は、学校でも簡単なことしかしようとしないという。失敗して「ママの期待に応えられない」のがこわいのである。

本当に子供を幸せできる「よき母」に必要なのは、母親が子供のために自分を犠牲にすることではなく、母親も幸せでいることではないだろうか。





子供のために自分を犠牲にすることが美徳になっていることのディスアドバンテージは、まだある。

女性が子供を持ちたがらないのだ。

実際に私の友達でも、「子供はほしくない。自由に生きたい。」という女性もいる。

それはそれで個人の選択なので評価するつもりはないが、「自由を制限されるから子供はほしくない」というのはなんだか悲しい。

第一子の出産平均年齢は30.1歳。、現在の日本の出生率は1.39。

人口を維持するのに必要な出生率2.1を遥かに下回っている。



そして子供を持つことを選ぶ女性は、仕事をやめてしまう。

日本の女性が働くようになれば、1人あたりのGDP4%アップすると言われるように、日本の経済力強化のためには女性の労働力が必要になっている。


日本が直面するこの2つの問題、出生率と出産後働く女性の率をともに上昇させる、つまり母親による仕事と家庭生活の両立を実現させることはできないのだろうか。

ヨーロッパ諸国の例を見てみると、北欧諸国等手厚い社会政策(出産・育児休暇制度、三歳児未満を対象にした託児施設の数や質の改善、企業や公共セクターにおける柔軟な勤務時間制度、長期育児休暇に職場に復帰しやすくすること)を実施しているところでも出生率は1.9と2.1には届かない。

例えばスウェーデンでは、男性の育児への参加を促進しようと、男性が育児休暇をとることを可能とする政策を実施しているがその制度を利用しているのは全体の10%にも満たないという。

それらに比べ、ヨーロッパ諸国の中で最も出生率の高いフランスは何が違うのか。

子供の養育費の多くを国が負担しているなど政策面の特徴も見られるが、ここで言及したいのは上でも説明した「母親の役割」についての社会的認識に特徴があること。

出生率ヨーロッパトップに貢献しているのは実際に30代の就労女性であり、また実際に一生のうちで子供をもたないと決断する女性はフランスでは圧倒的に少ないそうだ。

安倍内閣が働く女性を増やそうと、出産育児中の就労を可能にする政策を推し進めていることはもちろん大切だが、それよりも大切なのは、「母親は子供のために自分を犠牲にするべき」という社会的認識を変えることなのかもしれない。





日本では、赤ん坊は生後1ヶ月になるまでは家の外に出してはいけないと言われる。(感染症予防のためと言われるが、これは日本だけで、他の国ではある程度免疫をつけるために出産後すぐに外に出すことが多いという)

そして母親は当然のように、赤ん坊の側にいて授乳をしおむつを替え、何かあったときのために見張っていなければならない。

ということは、当然母親も家の中から出られないことになる。

「外の空気を吸いに散歩したい」
「カフェに座ってゆっくり本を読みたい」
「美容院に行ってきれいになりたい」
「友達とちょっとご飯でも行きたい」

まずはじめに、こういった自分の欲望に蓋をしなくてはならない。

その後も、自分の欲望やエゴと子供の成長を願う自分の矛盾が消えることはない。
そして何より、その矛盾が存在することを言えない辛さ。
子供のためを思う「良き母親」であるためには、こういった欲望がなかったことにしなくてはならないのだ。




子供をもったこと、そのことで自由を奪われ「こんなはずじゃなかった」と後悔している母親、そしてそれを言えない母親。これが今一番救われるべき者であり、そういう母親がうまれないように何かが変わらないといけない。

私は、幸運なことに、出産後、自分の子をもつということは素晴らしいことだなあと日々実感している。

というのも、母親そして女性という概念についていろいろな考え方をもつたくさんの人に囲まれ、「こうでなければならない」という単一の社会が生み出す「良き母親像」にとらわれなくてすんでいるからだ。

母親は子供と共に成長する。

こんな尊い機会を、「自由がなくなっちゃうから」という理由で逃すのは勿体ない、と私は思う。

自分の住む社会とは違った社会からみた「良き母親」を知る事、そしてその違いが存在することを知る事だけで、矛盾をかかえた母親は少し救われるのではないだろうか。そしてそれが、今の日本が出生率をあげるために、女性の労働力で経済力を強化するために、そして満たされた気持ちで子供をもつことができる女性が増えるために必要なことなのではないだろうか。

2013年2月8日金曜日

感謝の念を込めて。


最近、素敵だなあと思う生き方をしている女性とお会いすることが多い。

ライデンで勉強した時にお会いした女性。
彼女はUNHCRで10年間程働いた後に子供を出産し、
子供が1歳になる頃からシングルマザーとして子育てをしながらライデン大学で国際法を勉強されていた。
10年間僻地で働いてこられた彼女が、
「あんなに大変なことをやったんだからもう何も怖くない」と思う程困難を伴う1年間を乗り越え、現在はまたUNHCRに復帰し途上国で娘さんと共に生活されている。
強い意志を持ち他の人が歩んだことのない道を行く女性は、とてもセクシーだと思う。

慶応での授業でお会いした女性は、慶応卒業後、会社勤務を経て、
ハーバードビジネススクールで留学。
その後仕事をしつつ産休をとり出産。
出産を期に、「自分が一番の顧客だった」というベビーシッターの会社を立ち上げられる。
今はお二人のお子さんをアメリカ留学へと送り、
ご自身は慶応の法学部で勉強しながら翻訳の仕事をされている。
才能があり、その才能を活かす術を知っている女性は、魅力的だと思う。

慶応で働かれている女性教授は、もう定年に達しながらも、
慶応の国際センターで授業を続ける傍ら、三田にある一軒家で異文化交流のためのイベントを毎週開催されている。
彼女には子供がいない分、「生徒たちが子供みたいなものかも」と言う。
いつまでも好奇心を忘れない女性は、いつまでも美しいと思う。

私が個人的にお世話になっている女性は、
私の祖母くらいの年齢であるにも関わらず、多趣味で、若い人たちと話すのが好きだという。
自分の娘の子供を代わりに育てたり、外国人留学生をご自身の家で受け入れたりと、面倒見が良過ぎるのではと心配になる程、「どうしても世話してあげたくなっちゃうのよね」というところが、皆に好かれて慕われる理由なのだろう。
何にでも挑戦することを忘れない女性は、いつまでも若いと思う。

この前収録に参加させてもらったNHKの番組( http://www.nhk.or.jp/asia-nadeshiko/special/index2.html)では、家族(夫)と自分の夢との間で悩みながらも進む女性たちに出会った。
タイで大好きなゾウの世話とガイドの仕事をしていた女性は、夫が仕事の都合で日本に戻らなければならくなった時、迷わず夫について日本に帰ることを決めた。
仕事場での同僚や愛するゾウとの辛い別れを経て、日本で暮らしている彼女は、今日本でタイの同僚やゾウたちのためにできることを探し出し実践している。
「いつか必ず戻りますよ。ゾウと一緒にいない自分なんて、考えられない」と語っていた。
対して、この春から長年の夢だったカンボジアでの仕事を始めるという女性は、日本で働く夫がいる。
彼女の夫は「2年間」という期限つきで彼女のカンボジア行きを承諾したという。
いつか欲しいという子供のことも考えて、彼らが出した結論だという。
彼女たちを見ていると、「家庭」と「仕事の夢」、どちらかを選ばなければならない、なんてことはない、と思う。
まず「家族と一緒にいること」を選んだうえで自分がおかれる「環境」でできる最大限のことを探すか(タイにいた女性)
まず「環境」を選んだうえで自分が大切にしたい「家族」とどう関係を築いていくか考えるか(カンボジアに行く女性)
という問題なのだ。
もちろんどちらの選択も当たり前にうまくいくことではなく、本人の努力と周囲の理解が必要だけれども、決して、不可能なことではない、と思う。
あ、ちなみにこの番組、今日(2/8)の23:00-NHKで放映されるので、是非見てほしい。
特に夢をもつ女性にとっては、inspiringな内容だと思う。

そして最近訪れた南伊豆の海岸沿いの家で夫とクラス、日本画家の女性。
彼女の夫は彼女の日本画の師匠であり、彼女の夫でもあり、そして今年98歳になる彼(彼女はまだ50代)の面倒を見ながら絵を描く、という毎日を送っている。
人里離れた田舎で98歳の夫の面倒を見ながら暮らす彼女は、「昔から隠遁生活に憧れてたの笑」という。
毎日、毎日、同じ部屋の同じ窓から見える同じ海の絵を描いていて、飽きないのかと訪ねた時、彼女は「一日として同じ海はないから」と答えた。
一日一日の些細な変化に気づき、それを楽しむことができる彼女は、自分が何をしたいのか、自分にとって何が大切なのか、自分が何をしているのか、をよどみなくわかっているような感じがして、なんだか羨ましかった。
彼女が人生に悩む私を見て「昔の自分を思い出した」と言って贈ってくれた絵が、一番上の写真。

こんなにもの素敵な人たちに囲まれて彼女たちのポジティブな影響を受けている自分の幸運に感謝しながら、私もいつかは他の人にその影響を与えられるような人間になりたい、と思う。

2013年1月1日火曜日

2013年元旦にて

20代の1年間での変化ってものすごく大きくて

毎年毎年1年を振り返る度に、1年前の自分と比べた自分の考え方や進んでいく道の変化にびっくりするけど

この1年は特に変化の大きな年だったなあ、と。

1年前の自分に、「1年後には、お腹の中に7ヶ月の子供を抱えてるんだよ」なんて言ったら、顔面パンチをくらいそうだ。



変化には決断がつきもので、言い換えれば決断をすることが多かった年だったとも言える。

自慢じゃないが、私は自分の決断に後悔したことがない。

日々の’決定’(レストランで何を頼むとか、特急電車に乗るか普通電車で座って行くかとか)は別として、人生における大きな’決断’に対しては、いつも

「この道を選んで、本当によかった」と思うことばかり。

ただ、それは私の選択能力が優れているから、という訳ではない。

自分の考えを整理するために書き出してみたり、人の意見を聞いたり、とりあえずのことはするけど

決断の瞬間は「えいっ」に任せて決めることが多い。

何事にも「正解」がないように、「正しい道」なんてないし、それを判断する方法もないんだから、

自分の選んだ道を「最高の道」にするのは、決断をした後の自分次第。

いろいろと状況の変化(プライベートなことなのでブログではこういう表現で。笑)があった時でさえ、出産の決断は一度も後悔しなかった。

それだけは、産まれてくる赤ちゃんに誇りを持って言える。

自分が選んだこの道を、最高の道にするための今年の目標をここで宣言しておこうと思う。

逃げ道をつくらないために。



1.人を心から信頼できる人間になる
私は人を信じやすい方だと思う。

人間そんなに悪い人はいない、と思ってるから、簡単に人を信じてしまう。

「そんなんじゃすぐ騙されるよ」って注意されたりもする。

けど、「信じる」「騙される」のレベルではなく、

本当の意味で心から人を「信頼」するのはとっても難しいこと。

「信頼」するというころは「裏切られる」「傷つけられる」リスクをとるということだから。

心から信頼している人から裏切られること程、傷つくことはない。

人は、誰でも、裏切られるのは怖い。傷つくのも怖い。

今年は、自分自身が家族を築く。

家族の基盤は信頼。

傷つかないために人を信頼するのを避けてきた自分をやめようと思う。

信頼することは相手に敬意を示すこと。

自分が信頼をしてはじめて、人に信頼をしてもらえる。

そう考えると、一生人を信頼できないまま生きて行くよりも、心から人を信頼して裏切れる方が、意味のある人生を送ることができるんじゃないかって。

人を信頼することで何が得られるかは、この目標を達成してからのお楽しみ、っと。



2.Stay hungry
っていっても、ダイエットするという意味ではなく。笑

あえて翻訳すると、「妥協しない」ってとこかな。

今、女性がキャリアを追い求め始めた日本の社会では、晩婚化、高齢出産化が進んでいる。

それは、キャリアを追い求める女性はまず働き、それにきりがついた30代、40代で結婚し子供を産むから。

何年間かバリバリと働き、その後出産し、「もう仕事には満足したから、家庭に入って子育てに専念します」という元キャリアウーマンを、何人も見てきた。

でも、私は反対もありだと思う。

寿命が伸び、高齢になっても元気でいられる現代社会では、40代が女の最盛期。

若くして出産し、子育てをしながらキャリアを積み、子育てが落ち着いてから自由に飛び回る。

22歳というこの年齢で出産するからこそ、まだまだやれる、まだまだやりたいこともいっぱいある、まだまだ諦めたくないという気持ちを維持できる。

物理学者として活躍している米沢富美子さんが、同じく物理学者であり大学の先輩であった今の夫にプロポーズされた時、旦那さんはこう言ったという。

「物理と僕の奥さんと、両方とることをどうして考えないの」。

その一言で彼女は結婚を決断し、子供を育てながら勉学に励んだという。

出産、子供でキャリアでやりたいことにリミットをつくりたくないし、つくる必要もない。

「両方とる」

貪欲に、妥協しない姿勢を忘れないでおきたい。



3.道をつくる
これは、産まれてくる子供と同じように自分にも言い聞かせたいこと。

「僕の前に道はない、僕の後に道はできる」

私たちが進もうとしている道は、決して足跡の多い道ではない。

他の人が残した足跡に従って進むことが難しいこともあるだろう。

でも。

迷わずに自分の選んだ道を進め。

道が見つからなければ、探せ。

探しても見つからなければ、自分で道を造れ。




なんだか壮大な2013年の抱負になっちゃった。

この抱負を達成するとまでは言わないけれど、

1年後のこの日に、ちょっとでも目標に近づけるように2013年を精一杯生きたい。

2012年12月13日木曜日

いつかの私へ、そしてみんなへ

実は、私は今、2人分の生命を背負っている。

というのも、崖の底に落ちそうになっている愛する彼女の片手を握り、もう片方の手で崖っぷちをつかんでいるようなスーパーヒーローを思い浮かべないでもらいたい。

今の私は、そんな強いもんじゃない。

精神的にも、身体的にも、めっちゃよわっちい。

ホルモンのせいで精神は不安定だし、お腹も大きくなってきて、身体のいろいろなところに影響がでてきている。

そう、妊娠ってそういうもの。

卒業のための単位のために毎日学校に通いながら

卒論を仕上げながら

卒業のかかったテストを受けて

将来の進路としての海外大学院へのアプリケーションを仕上げる

一人暮らしの東京で、パートナーはアメリカ。

しかも、結婚はキャンセルになりこれからもどうなるかわからない。

この状態でこうやっていろいろなことを全部できる、全部やってやるっていうのは

「子供を産むという決心をしたことを、自分自身で誇りに思いたい」

という思いに駆られているんだと思う。

でも

親は、そして社会は、

「子育てはそんなに甘くない」

という戒めを、私に向かって何度も投げかける。

将来のことを考える時も

「子供をつれて、ひとりで海外に行って、勉強するなんて言語道断」

「出産したら数年はつきっきりを覚悟するべき」

がひっきりなしにとんでくる。

たしかに、1つの命を預かりながら、同時に自分のキャリアも追い求めようとするのは

私のわがままなのかもしれない。

「出産を誇りに思いたい」というのも

ただのエゴなのかもしれない。




こんなことを言うとまた社会的にどうだとか言われるかもしれないが

出産も、決して計画したものではなかった。

突然妊娠していることがわかった時は、ミャンマーでのインターンシップのために日本を出発する5日前だった。

1日で出産を決め、

親に「産むから」と伝え、

インターンシップ先の会社にも、妊娠の事情を伝えた上で行かせてほしいと頼んだ。

親や家族はもちろん心配していたし

インターン先の会社、社長、他のインターンたちにも心配をかけただろうと思う。

特につわりの時期だったので、 ベストパフォーマンスからはほど遠い貢献度だったと思う。

特に現地で企画したビジネスプランコンテストの前3日間ほどは吐き気がすごく、食べても吐くことを繰り返し、本番はふらふらの状態で司会をつとめた。

それでも、私は行ってよかったなあと思う。

妊婦という身体でミャンマーでのビジコンを一から成し遂げた

というとそれっぽく聞こえるが

私が行ってよかったなあと思うのは、その達成感のためだけじゃない。

私がそのインターンシップをあきらめていたら

自分が赤ちゃんのためにキャリアを犠牲にした、と少なからず感じていただろう。

自分が幸せでないと、他人を幸せになんてできない。

自分が赤ちゃんのために犠牲になり、不幸せになれば、赤ちゃんだってきっと幸せになれない。

それに、今回のインターンシップで、私が子供をかかえた女として他の同僚や上司と働いたことで

「女だってやればできる」

「妊婦だってここまでできる」

ということを証明できたのではないかと思う。




ここで私が言いたかったのはつまり

「自分の人生に、自分自身で期待することほど、そしてその期待に応えるべく進むことほど、勇気ある決断と勇敢な行為はない」

ということ。

これは実は、そのインターンシップ先の社長が、私が辛かった時に贈ってくれた言葉である。




世間体を恐れていては

無理だと最初からあきらめてしまっていては

人に助けを求めることをためらっていては

自分の人生への期待に応えることなんて、できない。




だから私は毎日学校へ行くし

卒論も皆と同じ期限に仕上げる

アプリケーションも全力を尽くすし

テストが終わってからも、いろいろなことをやらかしてやるつもりだ。

ベビーシッターの会社も立ち上げたい

フランス語も勉強したい

留学サポートを仕事にしたい

この機会にwebの勉強をしてHPくらい自分でつくれるようになりたい

今まで読む時間のなかった本も読みあさりたい




妊娠している自分を

子供を抱える自分を

この大きなお腹を

誇れるようになりたい。

そうやって、他の女性たちにも、女としての可能性は思っているよりも大きいことを示したい。

そして何よりも

産まれてくる子供が大きくなったら教えてあげたい。

ままはあなたがお腹にいる時にミャンマーで仕事してたんだよ。

ままはあなたが産まれる2ヶ月前まで毎日学校に行ってたんだよ。

ままはあなたがまだお乳を飲んでいる時にも働いていたんだよ。

そしてそれは、ぱぱや、ままが尊敬する人たちや、ままの友達や、ままの家族の、理解と助けがあったからなんだよ。

って。

2012年10月17日水曜日

ビジネス講座の大逆転はじめからおわりまで(2)




「でも、誰が教えるの?」

時間の関係もあり、講師を頼むわけにもいかず、残された選択肢は

「俺たち?」

MBAも、まともにビジネスも勉強したことのない私たちが、ビジネス講座なんて、ほぼ詐欺じゃないか...と思いつつ、やるしかないということで準備を始めることに。

グロービスのMBAシリーズを日本から取り寄せ、読みあさる。(これは、とってもわかりやすく簡潔にまとめられていておすすめ。)

経済学者を訪問し、フィードバックをいただく。

プレゼンの方法についても、ミャンマー人の学生から意見をもらう。

リハーサル、リハーサル・・・。



おっと。我々は講師兼企画者ということで、講義の準備ばかりしているわけにはいかない。

講座の内容を決め、開講場所を決め、開講日時を決め、値段を決め、広告をださなければならない。

できるだけはやく。

どう考えても時間がたりない。

開講場所候補との交渉も電話やメールで簡単迅速にはいかない。

いちいちアポイントメントをとり、まずスタッフと話し、そのフタッフが上司である校長に報告するのを待ち、はじめて校長と会うというステップを踏まなければならない。

新聞やジャーナルに広告を出すプロセスも、まず現地のサポート会社に原稿を送り、彼らが推敲+翻訳+デザインをし、チェック、それから新聞社に出稿し翌週に広告が載るというもの。

やっと決まった開講場所である英語学校のスタッフも、

「これじゃ1人も来ないかもしれませんよ。それでもやりますか?」

・・・やります。

ビジネスコンテストまでの日程との調整、広報をする期間の調整を含め、日程を変更し、ついに広告を出せる状態に。

ミャンマーで広報はどうすればいいのか?

まず、Facebook。年代にもよるが、若者の間ではかなりの人気を博している。ただ、皆家にネットを持っていないので、夕方〜夜にかけてインターネットカフェに行ってFacebookサーフィンをするそう。

次に、紙媒体。新聞・ジャーナルはたくさんの種類があり、毎日屋台に並べられている。値段は一部につき約30−50円。若者がよく読むのはEleven Newsというジャーナルだが、もちろんメディアごとに購読グループが違うので、ターゲットとする対象によって広告を載せるメディアを判断するのも大切。



最後に、フライヤー。我々の場合はビジネスに興味のある学生がターゲットだったので、プライベートスクールにフライヤーを置いてもらったり、レイ・ダンという学生街で6時(学生が帰るので、通りがとってもにぎやかになる時間)にフライヤー配りをしたりした。効果があったのかは不明だが、驚きだったのがフライヤーを受け取る人の確率。フライヤー自体が珍しいのか、外国人が珍しいのか、ただ皆優しいだけなのか、95%の確率で受け取ってくれるので、やりがいがある。


ある手を全て尽くしてのぞんだ広報戦略。

さあて、何人集まるのか。

2012年10月8日月曜日

ビジネス講座の大逆転はじめからおわりまで(1)

「この夏にミャンマーで会社を設立するという目標はあきらめるしかない」

そう、このインターン4人の当初の目的は「会社設立とその準備」であった。

ただ、ミャンマーで外国人が会社を立ち上げるとなると、今世界で一番ホットなあの法律の改正の行方に頼らざるをえない。

そう、「ミャンマー外国投資法」である。

外国人の土地貸借に関する条項、外国資本の投資に関する規制など、ミャンマーで進出を検討している企業にとっては目が離せない内容だ。

その内容は、現地会社との合弁会社と外資100%の企業を差別化するもの。

法律の内容はまだはっきりとは決まってない(改正は通ったが、まだロビー活動が続いているとのこと)のだが、進出コンサルタントの答えはこうだった。

「現地の複数の弁護士等専門家へのヒアリングによると、 100%外資設立に要する期間は、概ね最短で4ヵ月という回答がほとんど」

合弁を考えた現地企業もあったのだが、社長の最終的な判断で、外資100%で進出するという方針に決まった。


会社を設立できない=基本的に営業活動ができない、契約を結べない、お金を儲けることができない

ということで、我々インターンの目的は

「法に触れない範囲で、できる限り今後のビジネスに繋がる準備を行う」ことに変わってしまった。

とはいえ、航空券代、保険代、予防接種代、現地の全ての費用などなど会社から投資してもらっているこのプロジェクトで、少しでもお金を儲けて帰らないと会社に申し訳ない。

社長からも「ビジネスなんだから何かやるにしてもお金をとってこい」というお達しが。

ビジネスコンテストを有料にする案は集客の関係で断念。

「じゃあ、コンテストに出場する人をサポートするためのビジネス講座はどう?」

こんなふうに始まったヤンゴンの英語学校でのビジネス講座。

はてさて、うまくいくのでしょうか。

2012年9月15日土曜日

ミャンマー人がNOKIAを使わない理由

KIAと聞くとみなさんは何を思い浮かべるだろうか。

韓国の自動車会社Kia motors?

フィンランドの携帯会社noKIA?

あなたがミャンマー人なら、そして特にカチン(ミャンマー北部の地方の名前)民族なら、

まずKachin Independence Army(カチン独立軍)がでてくるだろう。

カチン州は中国との国境地域にあたり、川や山などの美しい自然に囲まれた地域である。
ヒスイの産地としても有名であり、中国に向けての輸出産業が盛んである。

そんなカチン州では、KIAと政府軍との間で内戦がおきている。



KIAは、1961年に当時の将軍であったネーウィンが中央政権国家を目指しとっていた地方支配政策に対抗して結成された。
以前はカチン州独立のために結成されたKIAだが、今では連邦国家建設を目標として戦い続けている。

こういった事情があり、カチンでKia motorsやNOKIAユーザーを見かけることはないという。
Kiaの自動車を使っていても、KIAのロゴは取りはずすのだという。


彼らはなぜ、連邦国家を望んでいるのか?

その説明にはまず、多民族国家でありかつ民族意識が深くしみついているミャンマーの社会について触れなければならないだろう。

ミャンマーでは大きく分けて8つ(カチン、カヤー、カイン、チン、モン、ビルマ、ラカイン、シャン)、全体で135にも及ぶ民族が存在する。

そしてその民族意識は、宗教に対する意識よりも深いものといってもいいだろう。

つまり、自分のアイデンティティーの中で、民族というものが大きな割合を占めているのである。

ミャンマーで出会った友達、仕事の仲間の中にはカチン族の人が多い。

彼らと会ったその当日には彼らがカチン族だということを知った。

つまり、民族の紹介は自己紹介の一部として行われるのである。外国人に対しても、だ。

ここで話を戻すと、少数民族であるカチンが連邦国家を望むのは、その深く根付いた民族意識のために、ミャンマー政府がビルマ族しか雇わないという民族差別政策が理由である。

しかし今のミャンマーに本当に必要なのは連邦国家なのだろうか。

他の途上国と同様に、ミャンマー社会全体では人材不足が問題になっている。

限られた優秀な頭脳、これからミャンマーが実現していこうとしている民主主義を理解しているごく少数の者たちが集まり、国をつくっていくべき時なのではないか。

アウンサンスーチーも、「まずは国として統一することが最優先」と意見を述べている。

そしてKIAが本当に求めているのは連邦国家なのだろうか。

彼らが反発している理由はよくわかる。

民族差別政策によって政府がカチン族を採用しなければ、ミャンマーはビルマ族だけに都合の良いようにつくられてしまう。

問題解決は連邦国家にあるのではなく、この政策を「なんとかする」ことにあるのではないか。

ただ、「なんとかする」のがどれだけ難しいのか私にはわからない。

KIAの彼らにとっては限りなく不可能に近いことなのかもしれない。


先ほどふれたカチン族の友達は、もともとカチンで会社を持っていたり、カチンに家族を残してきたりしてヤンゴンにうつってきた人たちだ。

私はただ、彼らのホームを奪っているこの内戦にやるせなさを感じ、政府が他民族国家という大きな特徴を考慮した政策をとり、早く内戦が終わり彼らのホームを返してあげてほしい、ということを願うのみである。