2022年12月20日火曜日
誰のための研究か
2022年12月19日月曜日
人との出会い
先学期初めて、ライデン大学法学部で成績トップの生徒だけが受けられる、Honours Collegeというプログラムの中のLaw, Gender, Race and Sexualityというコースを受け持った。私が普段受け持っている通常の講義は毎回50人を超える生徒がサインアップするのだけれど、Honours Collegeは少数精鋭という考えなのかその半数くらいがマックスだそうで、50ほどあった受講希望の中から26人ほどの生徒が参加した。
やはり少人数だと授業でできることの幅も広がる。講義もよりインタラクティブになったし、グループワークを課題にして各グループの研究発表を最後に企画したりした。そのおかげか、たくさんの生徒から嬉しい言葉、講義を始めた数年前の自分が聞いたら嘘かと思うような素晴らしいコメントをもらったりしたのだけれど、その中でも、生徒の一人がくれた、
Your lectures have changed my perspective on life and society, which I will take with me for the rest of my life. (先生の講義で社会や人生に対する視点が変わりました。今後の人生にずっと影響を与える講義になりました。)
というコメントを読んだ時には少し震えた。
そもそも私がアカデミアで仕事をしようか迷っていた時に決定的となったのが、今の上司であり私の博士時代の指導教官であったオランダ人教授との出逢いだった。私が学士時代オランダに留学した時に受けた「インドネシアの法と統治」や「法と文化」といった講義を受け持っていたのがその教授であった。その時に彼の講義を受けて学問は楽しいと実感したし、垣間見た彼の人間性は私の人生観にも影響を与えた。つまり、彼という教授が大学にいたことで、私の「人生が変わった」のだ。
振り返ってみると、私の人生の分岐点といえるようなところにあったのはいつも人との出逢いとその人たちから受けた感銘であった。小学校3年生の時担任だった先生。高校時代数週間きていた実習生。部活の顧問だった先生のアドバイス。上記の指導教官。他に友人や、本当に一度会っただけの人でも、彼らの言葉が今でも心に残っているものもある。こうやって挙げてみると教育者が多いことにも気がつく。色々な人との出会いが点となりそれが繋がって今の私がある。
学生を終え、娘を産み、この10年間、本当にがむしゃらに走ってきたけれど、そのおかげでなのか、世界中探してもこれ以上望むものは考えられないほどのポジションをもらえることになった。所謂、ドリーム・ジョブが、すとん、と、まるで当然そこにあるべきものように、私の手の中に落ちてきた。成長すること、学ぶことを貪欲にやってきたけれど、30代、これから10年は、もう少し、「私は他の人に何を与えられるのか」「どのようなポジティブな影響を与える存在になれるのか」ということにフォーカスをずらしていく時期かなと思う。それは学びとか知識の伝達という意味もだけれど、それだけじゃなく、人間的な、人格的な意味でも。私が今の上司に影響を受けたように。ただ彼が彼であることで、周りに良い影響を与える、人格者、あるいはもっとシンプルに、「善い人間」であること。
今ちょうど私の受け持つ講義がないタームで、充電中&次の講義に向けていろいろ構想を練っているところ。2月に始まる講義でも、生徒と、限られた時間で自分にできることを精一杯伝えたい、と、まだ会わぬ生徒たちに想いを馳せている。
2022年12月14日水曜日
逞しく育つ
今日は、家族揃って何年も通っているイタリアンのお店にふらっと寄って夕飯を食べに行った。ご夫婦で経営されているレストランで、旦那さんがシェフ、奥さんがウエイターをされていて、子供の歳も私の娘と同い年なので手が空いているときには奥さんと話に花が咲くこともある。今日も、ふと奥さんと話になったのが、「子供たちを逞しく育てたい」という彼女の想い。私自身の研究テーマにも関連するのでその点でも興味深かったのだけれど、今の社会で子育て、子供にたいするアプローチは「守る」ことに徹底している。皆が、社会が、先生が、親が、「子供を守る」「安全な環境に」ということに必死だけれど、でもそれだけでは子供は強く育たないよね、という彼女。確かに、安全な鳥籠の中にずっと入れて保護しているだけでは、いざ大人になって自由になり自立してその籠から出ていくときに、自分で自分を守ることができないという状況に陥るかもしれない。
そんな話になったのも彼女自身が今娘さん(私の娘と同じ歳)への接し方で考えるものがあったからかもしれない。9歳、小学3年生になっている娘さん。仲のいい友達が最近遠くへ引っ越して転校してしまったり、今学校でいる友達で意地悪してくる子がいるとかで、泣いて学校に行きたくないという朝もあるらしい。私自身も小学校では軽いいじめにあったこともあったし、小学校くらいの年頃の女の子の友達関係ってなかなか複雑で難しくなってくる。子供たちも、親である私たちに辛いことを全て話しているわけじゃないと思う。一人で抱えてることもあるのだろうと感じる。そんな時にどうやって娘に接して、どれだけ守って話を聞いてアドバイスをしてでも子供たちを信じて・・・というのはたしかに親として悩むところなのかもしれない。
娘が痛い思いをしたり、辛い思いをしているのを見ると、私自身が切り刻まれるような気持ちになることもある。彼女の辛さや痛みを、できるだけ取り除いてあげたい、できるだけ経験してほしくない、と願う気持ちは当然ある。でも、それを排除しようとするのが真の親の役目だろうか?傷つけないように守って守って、安全な籠の中に入れておくことが、彼女たちにとって最善なのだろうか?「守るより、逞しく、強い子に育てたい」そう言うママさんの声には確信があり、目はまっすぐで、私も納得してしまった。賛同せずにはいられなかった。
シェフに呼ばれてパタパタと厨房に帰っていくママさんを見て、私の娘が「ママトークしてたの」と聞くので笑った。話してたことについてどう思った、と聞くと娘は「私は強いから大丈夫」と迷わず言う。少しびっくりして、そうか、○○は強いのか、それはどうやって育ったから強くなったと思う?と聞くと、また彼女は即答する。「それはママが強いからでしょ」。
ちょっと嬉しかったけれど、娘には弱いところもたーくさん見せてるので、そうか、○○はママが強いと思うのか、弱いところもあるけどね。さっき話してた強さがどんな強さかっていうと、「打たれ強さ」っていう意味でもあると思うんだよね。生きてたらいろんなことがあって、辛いこととか嫌なこともあるから、大人になってから一人でそれに立ち向かえるように練習しとかないとね。と言うと、娘は「うん。失敗しても辛くても諦めないってことでしょ。ママがそうでしょ。」と言ってのける。
ここで私は日本語では「打たれ強い」という言葉を選んだけれど、もともとは「Resilient」という言葉が浮かんでいた。転ばない、失敗しない、傷つかない強さじゃなくて、そこから立ち直る強さ。転びながら、立ち上がって、疲れたら休んで、学習しながら、前を向いて進んでいく強さ。だから今のうちに、たくさん転びなさい。たくさん失敗しなさい。たくさん傷ついておきなさい。私がいるから、安全なところに戻ってきなさい。傷が癒えたら、また前に進む勇気が出たら、またいろんなことを試して経験しに行きなさい。これも、そこに愛があるからこそなのです。汚れひとつない綺麗なドレスのままでいるより、転んで泥んこになるくらいの方が、人生楽しいかもしれない。