2020年1月6日月曜日

帰路にて

今回の日本滞在は娘と日本の繋がりという意味で実りの多いものだった。

オランダでは、2019年に始めた進研ゼミの教材などでひらがなやカタカナを頑張ってやりながらも、学校でのオランダ語の読み書きとも重なりどうしても日本語は彼女にとって優先順位が低くなっていた。2021年ごろに一年間日本の小学校に「留学」させようと企んでいることもあり、今回の日本滞在で何かきっかけになることがあれば、と思い、家族にも日本語を徹底してもらうようにして私抜きで(私がいると英語にスイッチしてしまうので)それぞれ家族と過ごしてもらう時間もかなりつくった。

3週間の滞在が終わり、帰路に着く空港で、私の目をまっすぐ見て、何を言うのかと思ったら、いつも私には英語で話し日本語で話すのを面倒がる娘が、少したどたどしい日本語で、「わたし日本語はなすのがんばる。」と言うのだ。それだけでも胸がいっぱいになりながら、なぜそう思ったのか聞くと、「まこちゃんとばあば大好きだから、いっぱいお話したいから。」とまた日本語で答える。

空港まで来てくれた家族に見送られる時は泣かなかった彼女が、飛行機の中に入ってひと段落すると私の膝の上に顔を伏せる。私に甘えるような形で、でも私に見られないように、泣いている。どうしたのと聞いても大丈夫、という。どうした、泣いてもいいよ、というとばあばとまこちゃんがいないのが寂しいとぼろぼろ涙をこぼす。彼女の気持ちを思うと、そして日本での安穏日々とオランダでの忙しく厳しい生活のコントラストを思うと、私も泣けてくる。今までもフランスの家族と日本の家族とも別れる時はこういうことがあり、その時は、また次会えるから、とかスカイプしよう、とかいう慰めをしていたように思う。でも今回は、私も彼女と同じ気持ちだったからか、こんな言葉が出た。
「なんで悲しいかわかる?それは、まこちゃんとばあばのことが大好きだからだよ。大好きだから離れると悲しいし寂しいけど、そうやって大好きな人がいることはすごくいいことだよ。」



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飛行機の中では遠藤周作の沈黙を読んだ。キリスト教の話ということで、宗教にあまり個人的思い入れのない私は入り込みにくいかな、と思ってあまり期待せず読んだのだが、さすがの作家...宗教関係なく繋がるテーマが散りばめられており、すごく印象深い本となった。表題の通り、沈黙、日本において信徒がむごむごしく迫害される中で救いの手を差し伸べないキリスト教の神の沈黙、というのが核心的なテーマとなってくるのだけれど、最後には、それも神の愛のひとつだという結びになる。つまり、「愛とは、苦しみや悲しみを取り除くことではなく、それを共に感じ共有することである」と。




日本で家族のいるところでぬくぬくした休暇を過ごした後は、オランダに帰って彼女と二人の暮らしに戻ることへのとてつもない不安と孤独に襲われる。フランスでの休暇から彼女が戻ってきて、ある意味気楽な一人の時間から彼女と二人の生活に戻る時も、似たような不安を感じる。それはもちろん一人だと不安だから、という風に説明もできるのだけれど、掘り下げていくとそこにはプレッシャーや責任といったものが出てくる。娘のことが大事で大切で仕方がなくて、その尊いものを一人で守る責任の重さに胸がつぶれそうになるのだ。守るというのは生命や健康を守るという基本的なところはもちろん、彼女が産まれる時に私が彼女にした「彼女を幸せにする」という約束を守ることでもあった。幸せにするというのは今だけじゃなくて、将来のことも含めてなので、今私がしていることもしくはしていないことで、何か彼女を傷つけてしまい将来の幸せにダメージを与えていたらどうしよう、と、常に怯えながら彼女を育てていたように思う。

実は去年、彼女との関係をもっと良くしたいと思ってゲシュタルトセラピーというセラピーを何度か受けた。そこでその話題になり、その時の先生に、「子どもを幸せにする、っていうのはあまりにも難しい約束だ。幸せにする、っていうのは無理な約束だから、ただ愛する、ということで十分だよ。」と言われたことは目から鱗だった。

人生、苦しいことも悲しいことも山ほどある。人を愛するなら、必然的に辛さや悲しさもついてくる。誰かを愛すれば、その人を何らかの形で失う痛みを受け入れる形で生きていくことになる。例えば私は今年85歳になる祖父のことを昔から慕っている分、小さい頃から今までずっと、彼を失う恐怖と生きてきた。特に最近は高齢になり会うたびに弱っていくのをみながら、もしかしたら会うのはこれで最後かもしれないと覚悟をしながら毎年別れる。でもだからといって、彼を愛するのを止めるなんてことはできないししたくない。

そうやって生身の心をもつあたたかい人間として生きるためには、苦しみや悲しみはつきものであり、愛とは、その人が悲しみ苦しんでいる時に側にいて共有することなのだと。去年のセラピーでなんとなく感じ、頭でわかっていたことが、飛行機での会話で実感し、沈黙を読んだことで言語化されはっきりと輪郭をもった。

私自身も強がりでなかなか自分の中の脆い部分を認められないところがあるけれど、寂しい時は寂しいし、不安な時は不安だ。「強い者が弱い者よりも苦しまなかったというわけではないのだから、強い者も弱い者もないのかもしれない。」これも沈黙の中で印象に残った一節である。 

つまり、こういうことなのかもしれない。強さも弱さもないのだから、苦しみや悲しみはただそれに寄り添えばいい、それが唯一可能な愛の形なのだから。

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