今年は、いつもに増してあっという間に過ぎた年だった。
忙しかった、というか、まっすぐ前を見て進み、充実した年だったからかもしれない。
集中して取り組んだもののひとつは、博士論文。夏以降の数ヶ月は仕上げに費やし、仕上がったものが今reading committeeの手にある。トラブルが起こらなければ2020年春にはディフェンス(口頭試問を兼ねた学位授与式)ができるはず。
ふたつめは、一からつくりあげた講義。日本の法と社会という新しいコースのための資金を集めた同僚が重い病気になってしまい、彼の代わりにそのコースの設計から講義まで担当してくれないか、と2月頃に打診されたのが始まりだった。私の専門はインドネシア法や人権法で、日本法は専門外、それにコースを一からとなるとかなりの時間を費やすことになるので博士論文の仕上げと両立していけるのか、と今思えば懸念要素もたくさんあった。けれど、その時はビックリされてしまうほどすぐに、「やります」と答えていたように思う。
そうやって「専門外」としてはじめたコースだったけれど、コースのラーニング・オブジェクティブ、トピックを考え、文献を探し、読み込み、選び、シラバスをつくっていく中で、なんとなく「しっくり」くる感覚を覚えた。
というのも、今まではたぶん日本人としてライデンで「インドネシア法」を研究することに対して感じていたほんの少しの違和感があったのだと思う。インドネシア法の研究は楽しいし、インドネシアという国も好きだし、インドネシア研究をする同僚は好きだし、インドネシア法を研究するならライデンは最適な環境なのだけれど、「なぜ自分でなければいけないなのか」という理由は見当たらなかった。インドネシア研究をしているインドネシア人もオランダ人も周りにたくさんいて、その中でそれに加えてなぜ私なのだろうと、心のどこかでひっかかりを感じていたのだと思う。それに比べて、日本法、特に日本の法と社会をオランダで教えられるのは、本当に数人しかいない。それに、オランダで日本の法と社会を教えたい、という志半ばで病気になってしまった同僚の思いを前進させられるのは私しかいなかった。
だからそれが降ってきたもの、使命みたいなものに感じたし、そういったものに取り組むのもしっくりきた。私は、「こうやってキャリアを積んで、こういった方向に進んで・・・」と計画してガツガツと達成していくよりも、与えられたことを全うしている人の方が、美しいと感じる。そういう意味で欲のない人が好きだし、自分もそういう風に生きたいと思う。
忙しかった、というか、まっすぐ前を見て進み、充実した年だったからかもしれない。
集中して取り組んだもののひとつは、博士論文。夏以降の数ヶ月は仕上げに費やし、仕上がったものが今reading committeeの手にある。トラブルが起こらなければ2020年春にはディフェンス(口頭試問を兼ねた学位授与式)ができるはず。
ふたつめは、一からつくりあげた講義。日本の法と社会という新しいコースのための資金を集めた同僚が重い病気になってしまい、彼の代わりにそのコースの設計から講義まで担当してくれないか、と2月頃に打診されたのが始まりだった。私の専門はインドネシア法や人権法で、日本法は専門外、それにコースを一からとなるとかなりの時間を費やすことになるので博士論文の仕上げと両立していけるのか、と今思えば懸念要素もたくさんあった。けれど、その時はビックリされてしまうほどすぐに、「やります」と答えていたように思う。
そうやって「専門外」としてはじめたコースだったけれど、コースのラーニング・オブジェクティブ、トピックを考え、文献を探し、読み込み、選び、シラバスをつくっていく中で、なんとなく「しっくり」くる感覚を覚えた。
というのも、今まではたぶん日本人としてライデンで「インドネシア法」を研究することに対して感じていたほんの少しの違和感があったのだと思う。インドネシア法の研究は楽しいし、インドネシアという国も好きだし、インドネシア研究をする同僚は好きだし、インドネシア法を研究するならライデンは最適な環境なのだけれど、「なぜ自分でなければいけないなのか」という理由は見当たらなかった。インドネシア研究をしているインドネシア人もオランダ人も周りにたくさんいて、その中でそれに加えてなぜ私なのだろうと、心のどこかでひっかかりを感じていたのだと思う。それに比べて、日本法、特に日本の法と社会をオランダで教えられるのは、本当に数人しかいない。それに、オランダで日本の法と社会を教えたい、という志半ばで病気になってしまった同僚の思いを前進させられるのは私しかいなかった。
だからそれが降ってきたもの、使命みたいなものに感じたし、そういったものに取り組むのもしっくりきた。私は、「こうやってキャリアを積んで、こういった方向に進んで・・・」と計画してガツガツと達成していくよりも、与えられたことを全うしている人の方が、美しいと感じる。そういう意味で欲のない人が好きだし、自分もそういう風に生きたいと思う。
結局そのコースには55人(定員人数50人を超える大盛況・・・)の生徒が集まり、12回の講義が終わる頃には生徒全員の顔、名前や特徴がわかるくらい生徒ときちんと向き合えたと思う。課題も多くかなりdemandingなコースだったと思うのだけれどドロップアウトする生徒も少なかった。
今年を振り返ると、他には、
今まで数年借りていた家を買うことになり(職場の人や娘の父親にもかなり協力・相談させてもらった・・・ありがたい)。
次のポジションも決まり(新しい研究をかなり自由にさせてもらえるのと、今までの講義の担当を継続する)。
そうだ、テニスも本格的に再開して、トーナメントなどにも15年ぶりに出場した。その繋がりで、仕事・大学以外にも人間関係が広がった。
娘への愛は、フランスの家族と日本の家族と共にあたためた。愛し愛されることができる子に育っていること。健康であること。それが一番大事で、それさえあれば他は要らないと思う。他の彼女が優しく賢い子に育っていることなどは、すごく幸運なことであると、ありがたく思う。彼女と、そして彼女に愛情を注ぐ人たちと、一緒に人生を歩めていること以上の幸せはないと思う。
そんなところで振り返りは終わりにして、2020年の抱負。
1)堂々とする。
今、自信がないかあるかといえばあると思う。自信があっても、謙虚でありたいという思いが邪魔してか、それを進んで外にみせるようなことには抵抗があった。でも、自信をもつことは過信や傲慢とは違うし、堂々とすることもまた、 傲慢になるのとは違う。自分の能力や価値、自分の考え、行動、生き方に堂々としていればいい。そして堂々とできるように、自分にとっての価値に忠実に生きる。自分が信じていることを信じていい。でも頑なに頑固になるのとは違って、異なる意見、他の人の意見には必ず真剣に耳を傾けてオープンではあり続けたい。
自分にとって価値に忠実に生きる、とは他人の価値ではなく自分のとって価値のあることに拘ることでもある。ここ数年ではっきりと気づいたのだけれど、娘を産んでからかな、それから今まで私は「証明する」ことにかなりのエネルギーを費やしてきた。「若くして産んだから」とか「未婚の母だから」とかいう理由でごちゃごちゃ言われたり偏見を持たれたりすることを(勝手に)恐れて、「それでも」経済的に自立してやっていける、キャリアも積める、諦めなくていいし、子どももきちんと育つ、と、周りの人に「証明」したかったし、そのために肩肘はって頑張ってきた。そういった努力が悪かったとも、無駄だったとも思わない。むしろ今までは必要だったのかなとも思うし、そうやって努力し続けることができて結果も出せた自分と、そしてそれについてきてくれた娘は誇らしく思う。でもそうやって何かを「証明する」ために費やしたきたエネルギーを、これから「自分にとって価値のあることのため」に使ったら、もっと楽しく、もっとポジティブな生き方ができるんじゃないだろうか。
2)他人にポジティブな影響を与えられることをする。
そうやって自分の価値に忠実に、楽しく、ポジティブな生き方は、自己中心的な生き方なのだろうか?堂々と自分の道を進むことは、自分を中心に生きることであっても、他人を顧みない気にかけない自己中心的な生き方とは違う。自分のために、自分の価値のためにする何かが、他人にポジティブな影響を与えていればすごくいい。そして自分の価値に忠実に気持ち良く生きている人は、周りにもポジティブな影響を与えることになると思う。自分が楽しくないと、本当の意味で他人に良い影響を与えることはできない。自分を幸せにできない人は、他人も幸せにできない。関わる人に、なんらかの形でポジティブな影響を与えられるようにしたい。それは優しさをもって接することだったりとか、目の前にいる生徒に新しい視点を魅せることだったりとか、偽りなく素直に人に気持ちを伝えることだったりとか。それはやる気のない生徒でも、やる気のある生徒でも、不機嫌そうな通りすがりの人でも、同僚でも、友達でも、愛する人でも、家族でも、同じこと。それは全ての人に対して同じように接するということではなく、どんな形の接点でも関わりでも、相手が発するものがネガティブでもポジティブでも、私から他人へ発するものは、ネガティブよりもポジティブなものでありたい、ということ。そしてそういう形で目の前の人を大切にすることで、人を大切に、縁を大切にすることにも繋がるはず。
今、自信がないかあるかといえばあると思う。自信があっても、謙虚でありたいという思いが邪魔してか、それを進んで外にみせるようなことには抵抗があった。でも、自信をもつことは過信や傲慢とは違うし、堂々とすることもまた、
自分にとって価値に忠実に生きる、とは他人の価値ではなく自分のとって価値のあることに拘ることでもある。ここ数年ではっきりと気づいたのだけれど、娘を産んでからかな、それから今まで私は「証明する」ことにかなりのエネルギーを費やしてきた。「若くして産んだから」とか「未婚の母だから」とかいう理由でごちゃごちゃ言われたり偏見を持たれたりすることを(勝手に)恐れて、「それでも」経済的に自立してやっていける、キャリアも積める、諦めなくていいし、子どももきちんと育つ、と、周りの人に「証明」したかったし、そのために肩肘はって頑張ってきた。そういった努力が悪かったとも、無駄だったとも思わない。むしろ今までは必要だったのかなとも思うし、そうやって努力し続けることができて結果も出せた自分と、そしてそれについてきてくれた娘は誇らしく思う。でもそうやって何かを「証明する」ために費やしたきたエネルギーを、これから「自分にとって価値のあることのため」に使ったら、もっと楽しく、もっとポジティブな生き方ができるんじゃないだろうか。
2)他人にポジティブな影響を与えられることをする。
そうやって自分の価値に忠実に、楽しく、ポジティブな生き方は、自己中心的な生き方なのだろうか?堂々と自分の道を進むことは、自分を中心に生きることであっても、他人を顧みない気にかけない自己中心的な生き方とは違う。自分のために、自分の価値のためにする何かが、他人にポジティブな影響を与えていればすごくいい。そして自分の価値に忠実に気持ち良く生きている人は、周りにもポジティブな影響を与えることになると思う。自分が楽しくないと、本当の意味で他人に良い影響を与えることはできない。自分を幸せにできない人は、他人も幸せにできない。関わる人に、なんらかの形でポジティブな影響を与えられるようにしたい。それは優しさをもって接することだったりとか、目の前にいる生徒に新しい視点を魅せることだったりとか、偽りなく素直に人に気持ちを伝えることだったりとか。それはやる気のない生徒でも、やる気のある生徒でも、不機嫌そうな通りすがりの人でも、同僚でも、友達でも、愛する人でも、家族でも、同じこと。それは全ての人に対して同じように接するということではなく、どんな形の接点でも関わりでも、相手が発するものがネガティブでもポジティブでも、私から他人へ発するものは、ネガティブよりもポジティブなものでありたい、ということ。そしてそういう形で目の前の人を大切にすることで、人を大切に、縁を大切にすることにも繋がるはず。
3)頭じゃなくて、心や直観で決める。
仕事柄もあり、頭を中心に生きることが癖になっているのだけれど、人生の中心を少し心におろしてこようと思う。もっと心や直観を使って生きる、そして大切な決断をする。心で生きるために頭を使う。
仕事柄もあり、頭を中心に生きることが癖になっているのだけれど、人生の中心を少し心におろしてこようと思う。もっと心や直観を使って生きる、そして大切な決断をする。心で生きるために頭を使う。
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