2011年11月21日月曜日

言語の不思議

関係ないけど画像はおじいちゃんとおばあちゃんが送ってくれたcare package。おかきカイロでこの冬生き残るぞ。



人間は使う言語によって違う人になれる。

これが私が言語の学習が好きな理由のひとつ。

例えば友達の韓国人は韓国語、英語、中国語、日本語がペラペラ。

でも日本語で話している彼と英語で話している彼は全くの別人みたい。

彼と中国語、韓国語で話す別の友達が語った彼の像も、私が思っていた彼の像と違う。

彼は韓国語ネイティブ、

英語は大学で学び、

中国語は北京大学での留学4年間で学び、

日本語は独学でテレビを見て学んだらしい。

なるほど。どうりで日本語を話す彼はやたらひょうきんなわけだ。

学ぶソースや使う環境によってその言語を使うときの人格が変わる。




この現象は私にも起こっている。

例えば英語を使い始めた大学1年生の頃。

英語でできる表現が限られているので、うまい言い回しができない。

逆にストレートに表現できる(しなければならない)自分が好きだった。

お腹がすいてたらIm hungryていうしかないし、

したくないことはI dont want ってはっきりいうしかない。

飾らない素の自分を見せなければいけない分、

一度見せてしまえばそれが心地よかった。



今では英語でも表現の数が増え、言語を”操作”できるようになった。

それでもやっぱり英語を話す自分と日本語を話す自分にギャップを感じずにはいられない。

ヨーロッパ人の人間関係や考え方はもちろん日本、大きくわけるとアジアのそれと異なる点が多い。

ここヨーロッパで勉強している私にとって、英語を話す過程にはヨーロッパ人との接し方、メンタリティーがつきまとう。

傾向の話をするので、ヨーロッパとアジアをひとくくりにしてしまうことを予め断っておくと(もちろんどこにでも例外はいっぱいいる。自分でも自分自身を日本人としてくくられるのは違和感を感じる)

ヨーロッパ人の人との接し方は”距離”がある。

人には”パーソナルゾーン”があり、そのテリトリーには他人を入れたがらない。

これが私にとってはじめは難しかった。

友達によると私は他人のパーソナルゾーンに土足であがりこむことがあるらしく

それで不快な思いをさせないように気をつけていた。

あとアジア人が和を尊重するのに比べてヨーロッパでは個人主義が浸透している。

「私は私。他人は他人。自分のことは自分でするの。」

「弱みは他人に見せないよ。」

このスタイル、嫌いじゃない。

そうこうしてるうちに、ふと日本の友達のブログを読んだりすると、英語の自分がかなりドライであることに気づく。

そして日本人の機微や繊細さ、気配りの精神を思い出す(え?似合わないって言ったの誰?)
英語の自分も日本語の自分も、そのギャップも。

嫌いじゃないけど、

人間としてのコアな部分ってしっかり掴んでおきたいなっていう

自分のためのメモでした。

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