2011年11月29日火曜日

遠足。



遠足の行き先。
さてここはどこでしょうー!






答えは ICJ (International Court of Justice, 別名Peace Palace, 国際司法裁判所) 。

Moot Court for International Public Law の授業の一環で、ハーグ(ライデンから電車で15分。)にあるICJに行ってきました。



週末と休日以外は空いていて、アポなしでもパスポートを持っていれば自由に入れるみたい。

ちなみにPeace Palaceのすぐ横には図書館が併設されていて、何ユーロか払ってmembershipをとれば個人でも使えるようになるらしい。「ICJで勉強中なう。」がやりたい人は是非。


ツアーに参加して、裁判所の歴史やら歴代の裁判長やら建物の裏話を聞きながら建物を回るんですが、

歴代の裁判長の中で一番長く裁判長を務めていたのは日本人の小和田恆裁判官だとか(クラスメイトに「日本人やん!知ってる?」って何回も聞かれた笑)

裁判所で使われているのはフランス語と英語でスタッフは全員両言語の読み書き聞く話すが完璧にできないとだめだとか

建物は応募デザインの中から一番”普通”であったもの(neutralであるべきICJの姿を反映させたそう)を選んだとか

いろいろな小話が聞けました。

裁判所内に飾られている絵にも裏話が...て、これはツアーに参加したときのお楽しみにしておいてください笑

http://www.icj-cij.org/

websiteで事前に申し込めば裁判の傍聴もできるそう。わくわく

普段は写真撮影禁止なんだけど特別に撮らせてもらった裁判所内の写真たち。








おじいちゃんへ
留学生の食事事情は次回お送りします。お楽しみに!

2011年11月21日月曜日

言語の不思議

関係ないけど画像はおじいちゃんとおばあちゃんが送ってくれたcare package。おかきカイロでこの冬生き残るぞ。



人間は使う言語によって違う人になれる。

これが私が言語の学習が好きな理由のひとつ。

例えば友達の韓国人は韓国語、英語、中国語、日本語がペラペラ。

でも日本語で話している彼と英語で話している彼は全くの別人みたい。

彼と中国語、韓国語で話す別の友達が語った彼の像も、私が思っていた彼の像と違う。

彼は韓国語ネイティブ、

英語は大学で学び、

中国語は北京大学での留学4年間で学び、

日本語は独学でテレビを見て学んだらしい。

なるほど。どうりで日本語を話す彼はやたらひょうきんなわけだ。

学ぶソースや使う環境によってその言語を使うときの人格が変わる。




この現象は私にも起こっている。

例えば英語を使い始めた大学1年生の頃。

英語でできる表現が限られているので、うまい言い回しができない。

逆にストレートに表現できる(しなければならない)自分が好きだった。

お腹がすいてたらIm hungryていうしかないし、

したくないことはI dont want ってはっきりいうしかない。

飾らない素の自分を見せなければいけない分、

一度見せてしまえばそれが心地よかった。



今では英語でも表現の数が増え、言語を”操作”できるようになった。

それでもやっぱり英語を話す自分と日本語を話す自分にギャップを感じずにはいられない。

ヨーロッパ人の人間関係や考え方はもちろん日本、大きくわけるとアジアのそれと異なる点が多い。

ここヨーロッパで勉強している私にとって、英語を話す過程にはヨーロッパ人との接し方、メンタリティーがつきまとう。

傾向の話をするので、ヨーロッパとアジアをひとくくりにしてしまうことを予め断っておくと(もちろんどこにでも例外はいっぱいいる。自分でも自分自身を日本人としてくくられるのは違和感を感じる)

ヨーロッパ人の人との接し方は”距離”がある。

人には”パーソナルゾーン”があり、そのテリトリーには他人を入れたがらない。

これが私にとってはじめは難しかった。

友達によると私は他人のパーソナルゾーンに土足であがりこむことがあるらしく

それで不快な思いをさせないように気をつけていた。

あとアジア人が和を尊重するのに比べてヨーロッパでは個人主義が浸透している。

「私は私。他人は他人。自分のことは自分でするの。」

「弱みは他人に見せないよ。」

このスタイル、嫌いじゃない。

そうこうしてるうちに、ふと日本の友達のブログを読んだりすると、英語の自分がかなりドライであることに気づく。

そして日本人の機微や繊細さ、気配りの精神を思い出す(え?似合わないって言ったの誰?)
英語の自分も日本語の自分も、そのギャップも。

嫌いじゃないけど、

人間としてのコアな部分ってしっかり掴んでおきたいなっていう

自分のためのメモでした。

2011年11月8日火曜日

ナイロビにひとっとび


10日間のナイロビでのステイを終えて、
今じょもけにやった空港(それにしても面白い名前よね)でアムステルダム行きのフライトを待っています。

この10日間は今までの人生で最も密度が高いといっても過言ではないくらい
いろいろなことが起こり、
いろいろな人々と出会い、
いろいろなことを学び、
いろいろなあんびりーばぶるを経験しました。



いろいろなことがありすぎて、何を書こうか悩んでたけど、
考えてみると全ての伝えたいことの中心にあるのは、やっぱり、原点のMINAMATAでした。

UNEPIntergovernmental Negotiating Conference(INC)3 ではMercury Treatydraftの検討/交渉を間近で目にして、
国連加盟国1国1国の立場、主張、交渉の仕方の違いと
それをまとめるのに大変であろうUNEP chairの役割や
その中でNGOobserverとして果たせる役割、効果的な主張の仕方
そして、専門家でもない学生の自分ができることを考えた。
日本人であること。学生であること。水俣病に関する活動を行い勉強してきたこと。
「水俣病の教訓を多くの人に伝える」
これが私のできる最小限で最大限のこと、なんだろうなあって。
(お前国際法勉強してるんなら条約制定の過程でそれ活かせよ、っていうツッコミはなしで。笑 まだまだひよっこやし、この条約交渉は法律の議論というよりも政治、外交。)


そして、AISECのインターンとしてナイロビに滞在していた日本人のせいやさんの協力によって実現した水俣ナイロビ展。
考えてみると、10日間のステイで条約交渉に参加しながらの企画なんてむちゃなことしたなあと思うけど、
いろいろな人の介在、協力、熱意で成り立ったんだなあって。なんかしみじみ。
さすがのケニアンスタイルで、
事前に頼んでおいたはずが
「あれ?今週やったっけ?」(グリーンアフリカカルア氏)
「今日大学にプレゼンしにきて!」今もう午後ですが。(ナイロビ大学ジョセフ)
会場に行って準備も万端だったのに「あ、今日時間なくなったから無理。」(ロータリークラブ会長)
でも、そこで食い下がらないで訴えたおかげで、
また別の機会をつくってもらうことができたんだよね。



とにかく
ワニもダチョウも食べたし(ワニはいまいち、ダチョウはハンバーグの味。つまり牛?)
200歳のカメもかついだし(めっちゃ重い。10キロ)
毎日渋滞に巻き込まれて移動時間が約5時間/日やったし
アルファ(同僚の子供。生後9ヶ月。)のほっぺぷにぷにできたし
ケニア人は美人が多いし
ケニアを発つのに悔いはありません。
(ケニアについてはそれだけ?)


ところで次の交渉(INC4)はウルグアイになるらしい。
それどこ?って言ってる私は大丈夫なのでしょうか。