2015年3月31日火曜日

子育てが大変なのは悪いこと?




この動画をみて、ふと気づいたことがあった。

ああ、私は頑張っていたんだ。
そして何より、頑張っていることをみんなに見せないように必死になっていたんだ、と。

そして、頑張っているところを見せたくなかったのは、きっと「子育ては大変」というネガティブなイメージを払拭したかったからなんだろうと思う。
「勉強との両立なんて大変だね〜」と言われるのが嫌だったから、人一倍効率的にやってきたし、「子供ができるとやっぱり自由と時間がなくなるんだね」と思われるのが嫌だったから、今まで通り外にもでかけたし、自分の時間もとるように心がけてた。

先日、ふと参加したイベントでたまたま会った人と話していた時に、彼が「子供をもつと幸せ度が下がるという統計結果がある」と、自分が子供を持つつもりがない理由として話していた。
社会学者として、そして一人の母親として、その統計の方法とサンプルの選び方と質問の仕方と結果を全部まとめて見せてから言いなさいと思ったけれど、そこで異常に反発(心の中でだけれど)している自分に気がついた。

子育てで大変な思いをすること=不幸せ 
という公式ができているような気がするのは私だけだろうか?
そして、そんな公式ができてしまっているのはなぜなんだろうか?

例えば、アスリートが寝る間も惜しんで、怪我なんかもしながら、他のことを全て犠牲にして練習する大変さは、「努力」として評価の対象になる。
もっと身近な例でいうと、高校の部活に情熱を注いで大変な練習を乗り越えていることは、みんなからの賞賛の対象だった。実際に私は中高テニス部で、テニス以外のことをしている時は食べている時か寝ている時かお風呂に入っている時くらいしかない、というような生活をしていた。その時は、本当に大変だったし、しょっちゅう泣いていたし、身なりなんて気にしている暇もなかった。でも、その時は周りの皆は「努力の証」として見ていた。

実際に、何かを成し遂げようと思ったら、それがどんなことであろうとも、大変なことや苦労は避けて通れない。成功も、達成も、充実感も、その大変さがあるからこそ価値のあるものになる。

それが、なぜ子育ての大変さとなると、子育て中のママが疲れていたり、寝ていなかったり、身なりを気にしていかなったりすると、「不幸せ」のイメージがつきまとうのだろう?

ひとつの違いとして思いついたのは、子育ては他のことと違って「途中放棄」ができないということだった。
他のこと、例えば部活の例だったら、辞めようと思えばいつでも辞められる。ということは、大変な思いをしながらも続けているのは、自分の意思と決断でしているということだ。
それと違って、子育ては途中でやめられないからいつの間にか「義務」とみなされるようになるのだろうか?

そういえば最近読んだ本の中に、「選択の科学」というものがあった。
その本の中で紹介されていた数ある実験の中の1つの結果に、「人は自分で選んでやっているわけではないと感じている物事をする時に、選んでいないということ自体に不幸感を感じる」というものがあった。

でも、子育ても、強制されてやっているわけじゃない。ほとんどの人が、産みたい、産もうと思って決断して産んだはず。なら、その決断を自分の選択として自信を持っていいはずではないか。

最近では、子育ての大変な面が異常にクローズアップされて、政府の子育支援・出生率上昇政策はその大変さを軽減するためのものばっかりだ。
たしかに、子育ては楽じゃない。それは自信を持って言える。
でも、子供をもつことは、子供をもってからしかわからない(少なくとも、私は子供をもつまでわからなかった)楽しさと、その苦労が全部ふっとぶような幸せを感じる瞬間がある。
それは、保育園にお迎えに行ったときに私の顔をみて「ママー!」と満面の笑みで走って来る娘を見た時だったり、彼女がもっているみかんの半分を「ママも!」と差し出してくれた時だったり、絵本を読みながら膝の上で寝てしまった寝顔を見ている時だったり。

自分の強みも弱みもわかったうえで、どちらもさらけだして「これが私で、そんな私が私は好きなの」と言える人はきもちいい。
それなら私は、子育ての大変さも楽しさも包み隠さず見せて、「子育てって、めっちゃ大変だけど、めっちゃ楽しいから、そんなふうに子供をもてることが本当に幸せ」って言えるようになろう。