2013年4月18日、22歳の春に、私は母親になった。
その9ヶ月前に既に母親になっていたのかもしれない。その時に「母親になることを決めた」というべきか。
出産後、家族や友達と話をしていると「なぜ妊娠がわかった時に、出産することを決めたのか」という理由説明することが多い。
まず、この質問の裏には「なぜ中絶を選ばなかったのか」という問いがある。
もちろん中絶に伴う肉体的精神的苦痛がこわかった、というネガティブな理由も1つだ。
実際に、(中絶せずに)出産を決めた後で、確認のために産院で受けたエコーの写真に写った小さな黒い点(これが生命の始まりなのである)を見た瞬間、
「ああ、これは中絶すると決めていたとしてもできなかっただろうなあ」と思った。
しかし、出産を決めた本質的な理由は、若い歳での出産をポジティブにとらえる理由を見つけることができたことにある。
私は、自分のやりたいことを仕事として、趣味として、実現することに自分の人生の意味を見いだしていた。具体的には、発展途上国で現地の開発のための活動に携わること。そして国内国外を周りいろんな世界を見ること。
それに子供だって欲しかった。
この2つをどちらも実現したいと思う女性、いわゆる「キャリアウーマン」が選ぶ道は、大抵、若いうちは働き、遊び、それらにある程度満足がいったら結婚し、出産し、専業主婦(もしくはパートタイム)になり子育てをする、というものだろう。
しかし22歳で決断を迫られた私はその時、考えた。
子供をもつ、ということは一生のうち子供が自立するまでの少なくとも15年間はある程度の制約とともに生きていくということ。でも、それが今大半のキャリアウーマンが選んでいるように35歳からの15年間である必要があるのだろうか。どうせ子供を育てるなら、その15年間を22歳から37歳の間に費やすのが、なぜできないのか。
個人的には40歳からが女性にとっての最盛期だと思っているので、その最盛期も「自分だけのために」使うことができる。 私の場合は、その15年間を勉強や研究(実は会社で働いたりするよりも子育てとの両立がしやすい)に費やせば、その後の「実務」に活かすこともできる。
これが私が出産を決めた理由だったわけだが、出産からの15年間、母親に自由がないというイメージにも疑問がある。
妊娠中のこと。親戚が集まるお正月の場で、親戚の1人から「人生で一番遊びたい時期を子供のために捧げるのだから、頑張ってね。」と声をかけられた。
もちろん彼女は意地悪で言ったのではなく、母親として頑張ってほしいという応援の言葉として言ってくれたのだが、私はその時妙な違和感を感じたのを覚えている。
その後、妊娠後期(大学でのテストを終え、実家に戻って出産準備をしていた9、10ヶ月目)に読みあさっていた外国での妊娠出産や子育ての捉え方に関する本で、その違和感の正体がわかった。
子育てにおける母親の役割について、欧米の中でも特異な社会的概念が存在するフランスでは、「子の人生は一人の人間としての人生、母親の人生も一人の女性としての人生である」のが通念である。だから、女性は母親になった後も「女性」であることを当たり前としそれを主張する。
その考え方にしっくり来た私は、「子供に自分の人生を捧げる」という言葉に対して感じた違和感を思い出した。
総体論になって申し訳ないが、現在の日本社会では「母親が自分を犠牲にして子供の世話をする」ことで「子供に人生を捧げる」ことが美徳とされているように感じられる。
しかし、本当に母親が自分を犠牲にすることが子供を幸せにすることに繋がるのだろうか。
こんな話がある。
ある女性は、女医として働くまさに「キャリアウーマン」だった。そんな彼女が中年になり、出産した時に彼女は仕事をやめ、専業主婦として子育てに専念することに決めた。それは彼女の母親が彼女にしてくれたこと(彼女の母親は専業主婦であった)を自分の子供にもしてあげたいと考えたからであった。そして、医者という仕事をやめて母親という仕事に「転職」した瞬間、彼女は皆から尊敬され羨ましがられる「キャリアウーマン」から「どこにでもいる子連れの主婦」になり誰からも評価されなくなってしまったのだ。そんな彼女のストレス発散方法は、週一回子供を連れてカラオケにいくこと。
決断は各人の自由だが、なんだか彼女の才能が勿体ないような気がしてならない。
さらに彼女は自分が周りから評価されなくなった分、自分の娘に期待をかけるようになった。子供に対する評価=自分の母親業に対する評価、になってしまい、結果子供に悪いプレッシャーを与えることになっている。彼女の娘は、学校でも簡単なことしかしようとしないという。失敗して「ママの期待に応えられない」のがこわいのである。
本当に子供を幸せできる「よき母」に必要なのは、母親が子供のために自分を犠牲にすることではなく、母親も幸せでいることではないだろうか。
子供のために自分を犠牲にすることが美徳になっていることのディスアドバンテージは、まだある。
女性が子供を持ちたがらないのだ。
実際に私の友達でも、「子供はほしくない。自由に生きたい。」という女性もいる。
それはそれで個人の選択なので評価するつもりはないが、「自由を制限されるから子供はほしくない」というのはなんだか悲しい。
第一子の出産平均年齢は30.1歳。、現在の日本の出生率は1.39。
人口を維持するのに必要な出生率2.1を遥かに下回っている。
そして子供を持つことを選ぶ女性は、仕事をやめてしまう。
日本の女性が働くようになれば、1人あたりのGDP4%アップすると言われるように、日本の経済力強化のためには女性の労働力が必要になっている。
日本が直面するこの2つの問題、出生率と出産後働く女性の率をともに上昇させる、つまり母親による仕事と家庭生活の両立を実現させることはできないのだろうか。
ヨーロッパ諸国の例を見てみると、北欧諸国等手厚い社会政策(出産・育児休暇制度、三歳児未満を対象にした託児施設の数や質の改善、企業や公共セクターにおける柔軟な勤務時間制度、長期育児休暇に職場に復帰しやすくすること)を実施しているところでも出生率は1.9と2.1には届かない。
例えばスウェーデンでは、男性の育児への参加を促進しようと、男性が育児休暇をとることを可能とする政策を実施しているがその制度を利用しているのは全体の10%にも満たないという。
それらに比べ、ヨーロッパ諸国の中で最も出生率の高いフランスは何が違うのか。
子供の養育費の多くを国が負担しているなど政策面の特徴も見られるが、ここで言及したいのは上でも説明した「母親の役割」についての社会的認識に特徴があること。
出生率ヨーロッパトップに貢献しているのは実際に30代の就労女性であり、また実際に一生のうちで子供をもたないと決断する女性はフランスでは圧倒的に少ないそうだ。
安倍内閣が働く女性を増やそうと、出産育児中の就労を可能にする政策を推し進めていることはもちろん大切だが、それよりも大切なのは、「母親は子供のために自分を犠牲にするべき」という社会的認識を変えることなのかもしれない。
日本では、赤ん坊は生後1ヶ月になるまでは家の外に出してはいけないと言われる。(感染症予防のためと言われるが、これは日本だけで、他の国ではある程度免疫をつけるために出産後すぐに外に出すことが多いという)
そして母親は当然のように、赤ん坊の側にいて授乳をしおむつを替え、何かあったときのために見張っていなければならない。
ということは、当然母親も家の中から出られないことになる。
「外の空気を吸いに散歩したい」
「カフェに座ってゆっくり本を読みたい」
「美容院に行ってきれいになりたい」
「友達とちょっとご飯でも行きたい」
まずはじめに、こういった自分の欲望に蓋をしなくてはならない。
その後も、自分の欲望やエゴと子供の成長を願う自分の矛盾が消えることはない。
そして何より、その矛盾が存在することを言えない辛さ。
子供のためを思う「良き母親」であるためには、こういった欲望がなかったことにしなくてはならないのだ。
子供をもったこと、そのことで自由を奪われ「こんなはずじゃなかった」と後悔している母親、そしてそれを言えない母親。これが今一番救われるべき者であり、そういう母親がうまれないように何かが変わらないといけない。
私は、幸運なことに、出産後、自分の子をもつということは素晴らしいことだなあと日々実感している。
というのも、母親そして女性という概念についていろいろな考え方をもつたくさんの人に囲まれ、「こうでなければならない」という単一の社会が生み出す「良き母親像」にとらわれなくてすんでいるからだ。
母親は子供と共に成長する。
こんな尊い機会を、「自由がなくなっちゃうから」という理由で逃すのは勿体ない、と私は思う。
自分の住む社会とは違った社会からみた「良き母親」を知る事、そしてその違いが存在することを知る事だけで、矛盾をかかえた母親は少し救われるのではないだろうか。そしてそれが、今の日本が出生率をあげるために、女性の労働力で経済力を強化するために、そして満たされた気持ちで子供をもつことができる女性が増えるために必要なことなのではないだろうか。
その9ヶ月前に既に母親になっていたのかもしれない。その時に「母親になることを決めた」というべきか。
出産後、家族や友達と話をしていると「なぜ妊娠がわかった時に、出産することを決めたのか」という理由説明することが多い。
まず、この質問の裏には「なぜ中絶を選ばなかったのか」という問いがある。
もちろん中絶に伴う肉体的精神的苦痛がこわかった、というネガティブな理由も1つだ。
実際に、(中絶せずに)出産を決めた後で、確認のために産院で受けたエコーの写真に写った小さな黒い点(これが生命の始まりなのである)を見た瞬間、
「ああ、これは中絶すると決めていたとしてもできなかっただろうなあ」と思った。
しかし、出産を決めた本質的な理由は、若い歳での出産をポジティブにとらえる理由を見つけることができたことにある。
私は、自分のやりたいことを仕事として、趣味として、実現することに自分の人生の意味を見いだしていた。具体的には、発展途上国で現地の開発のための活動に携わること。そして国内国外を周りいろんな世界を見ること。
それに子供だって欲しかった。
この2つをどちらも実現したいと思う女性、いわゆる「キャリアウーマン」が選ぶ道は、大抵、若いうちは働き、遊び、それらにある程度満足がいったら結婚し、出産し、専業主婦(もしくはパートタイム)になり子育てをする、というものだろう。
しかし22歳で決断を迫られた私はその時、考えた。
子供をもつ、ということは一生のうち子供が自立するまでの少なくとも15年間はある程度の制約とともに生きていくということ。でも、それが今大半のキャリアウーマンが選んでいるように35歳からの15年間である必要があるのだろうか。どうせ子供を育てるなら、その15年間を22歳から37歳の間に費やすのが、なぜできないのか。
個人的には40歳からが女性にとっての最盛期だと思っているので、その最盛期も「自分だけのために」使うことができる。 私の場合は、その15年間を勉強や研究(実は会社で働いたりするよりも子育てとの両立がしやすい)に費やせば、その後の「実務」に活かすこともできる。
これが私が出産を決めた理由だったわけだが、出産からの15年間、母親に自由がないというイメージにも疑問がある。
妊娠中のこと。親戚が集まるお正月の場で、親戚の1人から「人生で一番遊びたい時期を子供のために捧げるのだから、頑張ってね。」と声をかけられた。
もちろん彼女は意地悪で言ったのではなく、母親として頑張ってほしいという応援の言葉として言ってくれたのだが、私はその時妙な違和感を感じたのを覚えている。
その後、妊娠後期(大学でのテストを終え、実家に戻って出産準備をしていた9、10ヶ月目)に読みあさっていた外国での妊娠出産や子育ての捉え方に関する本で、その違和感の正体がわかった。
子育てにおける母親の役割について、欧米の中でも特異な社会的概念が存在するフランスでは、「子の人生は一人の人間としての人生、母親の人生も一人の女性としての人生である」のが通念である。だから、女性は母親になった後も「女性」であることを当たり前としそれを主張する。
その考え方にしっくり来た私は、「子供に自分の人生を捧げる」という言葉に対して感じた違和感を思い出した。
総体論になって申し訳ないが、現在の日本社会では「母親が自分を犠牲にして子供の世話をする」ことで「子供に人生を捧げる」ことが美徳とされているように感じられる。
しかし、本当に母親が自分を犠牲にすることが子供を幸せにすることに繋がるのだろうか。
こんな話がある。
ある女性は、女医として働くまさに「キャリアウーマン」だった。そんな彼女が中年になり、出産した時に彼女は仕事をやめ、専業主婦として子育てに専念することに決めた。それは彼女の母親が彼女にしてくれたこと(彼女の母親は専業主婦であった)を自分の子供にもしてあげたいと考えたからであった。そして、医者という仕事をやめて母親という仕事に「転職」した瞬間、彼女は皆から尊敬され羨ましがられる「キャリアウーマン」から「どこにでもいる子連れの主婦」になり誰からも評価されなくなってしまったのだ。そんな彼女のストレス発散方法は、週一回子供を連れてカラオケにいくこと。
決断は各人の自由だが、なんだか彼女の才能が勿体ないような気がしてならない。
さらに彼女は自分が周りから評価されなくなった分、自分の娘に期待をかけるようになった。子供に対する評価=自分の母親業に対する評価、になってしまい、結果子供に悪いプレッシャーを与えることになっている。彼女の娘は、学校でも簡単なことしかしようとしないという。失敗して「ママの期待に応えられない」のがこわいのである。
本当に子供を幸せできる「よき母」に必要なのは、母親が子供のために自分を犠牲にすることではなく、母親も幸せでいることではないだろうか。
子供のために自分を犠牲にすることが美徳になっていることのディスアドバンテージは、まだある。
女性が子供を持ちたがらないのだ。
実際に私の友達でも、「子供はほしくない。自由に生きたい。」という女性もいる。
それはそれで個人の選択なので評価するつもりはないが、「自由を制限されるから子供はほしくない」というのはなんだか悲しい。
第一子の出産平均年齢は30.1歳。、現在の日本の出生率は1.39。
人口を維持するのに必要な出生率2.1を遥かに下回っている。
そして子供を持つことを選ぶ女性は、仕事をやめてしまう。
日本の女性が働くようになれば、1人あたりのGDP4%アップすると言われるように、日本の経済力強化のためには女性の労働力が必要になっている。
日本が直面するこの2つの問題、出生率と出産後働く女性の率をともに上昇させる、つまり母親による仕事と家庭生活の両立を実現させることはできないのだろうか。
ヨーロッパ諸国の例を見てみると、北欧諸国等手厚い社会政策(出産・育児休暇制度、三歳児未満を対象にした託児施設の数や質の改善、企業や公共セクターにおける柔軟な勤務時間制度、長期育児休暇に職場に復帰しやすくすること)を実施しているところでも出生率は1.9と2.1には届かない。
例えばスウェーデンでは、男性の育児への参加を促進しようと、男性が育児休暇をとることを可能とする政策を実施しているがその制度を利用しているのは全体の10%にも満たないという。
それらに比べ、ヨーロッパ諸国の中で最も出生率の高いフランスは何が違うのか。
子供の養育費の多くを国が負担しているなど政策面の特徴も見られるが、ここで言及したいのは上でも説明した「母親の役割」についての社会的認識に特徴があること。
出生率ヨーロッパトップに貢献しているのは実際に30代の就労女性であり、また実際に一生のうちで子供をもたないと決断する女性はフランスでは圧倒的に少ないそうだ。
安倍内閣が働く女性を増やそうと、出産育児中の就労を可能にする政策を推し進めていることはもちろん大切だが、それよりも大切なのは、「母親は子供のために自分を犠牲にするべき」という社会的認識を変えることなのかもしれない。
日本では、赤ん坊は生後1ヶ月になるまでは家の外に出してはいけないと言われる。(感染症予防のためと言われるが、これは日本だけで、他の国ではある程度免疫をつけるために出産後すぐに外に出すことが多いという)
そして母親は当然のように、赤ん坊の側にいて授乳をしおむつを替え、何かあったときのために見張っていなければならない。
ということは、当然母親も家の中から出られないことになる。
「外の空気を吸いに散歩したい」
「カフェに座ってゆっくり本を読みたい」
「美容院に行ってきれいになりたい」
「友達とちょっとご飯でも行きたい」
まずはじめに、こういった自分の欲望に蓋をしなくてはならない。
その後も、自分の欲望やエゴと子供の成長を願う自分の矛盾が消えることはない。
そして何より、その矛盾が存在することを言えない辛さ。
子供のためを思う「良き母親」であるためには、こういった欲望がなかったことにしなくてはならないのだ。
子供をもったこと、そのことで自由を奪われ「こんなはずじゃなかった」と後悔している母親、そしてそれを言えない母親。これが今一番救われるべき者であり、そういう母親がうまれないように何かが変わらないといけない。
私は、幸運なことに、出産後、自分の子をもつということは素晴らしいことだなあと日々実感している。
というのも、母親そして女性という概念についていろいろな考え方をもつたくさんの人に囲まれ、「こうでなければならない」という単一の社会が生み出す「良き母親像」にとらわれなくてすんでいるからだ。
母親は子供と共に成長する。
こんな尊い機会を、「自由がなくなっちゃうから」という理由で逃すのは勿体ない、と私は思う。
自分の住む社会とは違った社会からみた「良き母親」を知る事、そしてその違いが存在することを知る事だけで、矛盾をかかえた母親は少し救われるのではないだろうか。そしてそれが、今の日本が出生率をあげるために、女性の労働力で経済力を強化するために、そして満たされた気持ちで子供をもつことができる女性が増えるために必要なことなのではないだろうか。